歴史・名言

人生の複雑さには、武者小路実篤の人生論を元に向き合おう

人生の複雑さには、武者小路実篤の人生論を元に向き合おう

以前、人生が上手くいかないと感じている人に向けて、
ノイマンの名言を引用して人生の複雑さを説明する記事を書きました。

人生が上手くいかないと感じたらノイマンの名言について考えよう
人生が上手くいかないと感じたらノイマンの名言について考えよう人生が上手くいかないな、と感じてはいませんか?そんなあなたには、是非20世紀の偉大な数学者ジョン・フォン・ノイマンの名言「もしあなたが数学は単純なものだと思えないというなら、それはあなたが単に人生がどれほど複雑なものかを理解していないからにすぎない。」を読み解いて得られる示唆をお伝えしたいです!...

これにより、まず大前提として人生の複雑さを受け入れるべきで、無駄に足掻いたり絶望したりするべきではないという結論に至りました。

しかし、人生が複雑であると分かっても、そこから実際どう行動すべきなのか、という指針が欲しいところです。

そこで今回は、複雑な人生に対してどう向き合っていくか、という問いに答えを出す手助けとなる名言の紹介と、そこから得られる人生の捉え方に関する示唆をお伝えしようと思います。

この記事があなたの人生への向き合い方の一つの指針となったら嬉しいです。

人生の複雑さには、武者小路実篤の人生論を元に向き合おう

人生の複雑さには、武者小路実篤の人生論を元に向き合おう
人生が複雑だと分かっても、どう向き合えばいいのかが分からない、という時は、武者小路実篤(1885-1976)の名言から彼の人生論を読み解きましょう

実篤の名言


人生はむつかしく解釈するから分からなくなる。

武者小路 実篤

一見、ノイマンの語る「人生は複雑なものだ」という言葉と矛盾しているように感じるこの名言。
しかし、その背景にある実篤の人生論を知ることで、決して彼らは真逆のことを言っているわけではなく、複雑な人生は「自然」というキーワードを元に向き合うことが出来る、と実篤は説いているのだと分かります。

詳しい解説

詳しい解説
実篤の名言を読み解く為には、まず実篤の人生観について理解する必要があります。

人間は神が作ったのではなく、自然が作ったものだ

巷でよく囁かれる言葉として、「生き物は神が作った」「人間の命は神から授かったものだ」というものがあります。
私自身はこの考え自体を否定するつもりはありませんし、宗教の観点からそう信じることも人生に向き合うための正解の一つであると思います。

ただ、実篤はそのようには考えていませんでした。
人間は、何十億年という長い年月の間に自然に生まれ出でた生命のうちの一つとして、偶然生まれたにすぎない、と考えていました。

何故なら、神が人間を作り出したとすると、完璧な状態からは程遠いからです。
人間は様々な不足や苦痛を感じ、またあまりに無常です。
しかし、自然が作り出したと考えるのならば人間は傑作だと言えます。人間には他の生物に劣る能力や性質を補い、成長し続ける驚異的な能力があるのですから。

この「自然」というキーワードを元に人間の生活を振り返ってみると、普段自分たちが主体的に自分の中に発生していると感じている感覚すらも、自分たちの手元から離れていたということが分かります。

人間には、全身に張り巡らされた神経があります。
この神経は、外部の刺激を電気信号に変えて神経上を伝導し、神経の末端ではその信号を化学物質に変えて次の神経や細胞へと伝達します。
人間はこのような生理学的なメカニズムによって「感覚」というものを得ているのです。

さて、その「感覚」は一体誰のものでしょうか?
自分が「感じている」のだから、自分のものでしょうか?

実篤は、あくまで神経系は自然によって人間の中に与えられたものであり、その神経によって得られる「感覚」とは人間という複雑系の中の一システムが働いた結果でしかなく、「感じる」のではなく「感じさせられている」のだ、と考えていました。

実篤のこの「自然」というキーワードにより彼の人生論を紐解くと、人生もまた感覚と同じように、主観的なものではないと分かります。そこからは、人生を一個人の視点から捉えるのではなく、もっと大きく、そして外部に存在する視点から捉えるべきだ、という示唆が得られました。

究極の人生は宇宙と調和すること

さて、自然によって生み出された人間、その一人ひとりに与えられた人生の究極とは、どのようなところにあるのでしょうか。

実篤は究極の人生を求める前に、健康であることがまず第一条件であると考えました。
健康は人生の目的ではないが、まず最初の条件である、というのです。

何故なら、それがやはり「自然」であるからです。

前項で人間の感覚は自然により「感じさせられている」ものだ、と説明しましたが、肉体の苦痛も同じく「感じさせられている」ものです。
しかしそれは自然が人間を苦しめようとしていたずらに苦しめているのではなく、自然な状態から外れた人間に対して警告し、自然の状態へと戻る行動のきっかけとなるべく、止むを得ず与える苦痛なのです。

喉が乾けば水を飲みたくなる。

このようなホメオスタシスへの回帰を促す役割こそが自然により与えられる肉体の苦痛なのです。

つまり、苦痛を感じ続ける状態は、当然自然ではありません。健康でない肉体に発展はないし、そこに究極の人生は存在しません。

だからこそまず肉体を健康に保ち、自己の肉体の健康さに気がつかないほどにそれを当たり前なものとして存在させることが第一条件になるのです。そして肉体の健康は精神の健康につながります。
所謂「健全なる精神は健全なる身体に宿る」というやつですね。ちなみにこれは誤訳なのですがその話についてはこちらの記事をご覧ください…笑

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は誤訳!?本来の意味とその出典とは
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は誤訳!?本来の意味とその出典とは「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という有名な言葉がありますが、実はそれは誤訳が広く広まったものです。原典であるユウェナリスの詩では本来どのような意味で用いられていて、そこからどのような示唆を得られるのでしょうか。...

するとその精神は自己の存在をも忘れ、最も健全な無心の状態に入ります。そしてやがて宇宙と調和することで、生ているまま真理に生きることができるのです。
やや宗教的になってきましたが…仏教徒の言うところの「涅槃」に近いこの概念こそが究極の人生であると、実篤は考えました。

究極の人生についての解説の図

人生の目的は自己の成長と隣人へ尽くすこと

究極の人生には、肉体の健康が第一条件である、ということが分かりました。
しかし、大きな人生の目的として自然=宇宙に調和する、と言われても、スケールが大きすぎてその具体的な内容が分かりませんよね。

ただ生まれ、ただ生き、ただ子孫を残す。これを健康な状態で行えばそれで良いのでしょうか?

そんなにつまらないことはありません。
人間とは、生命システムの大きな流れを存続させるためのただの一要素ではないはずです。

人間は成長することを欲します。そのために、生ている間に様々なことをしておくことが必要です。
人間は何かをするために生まれてきたのであって、何もしない為に生まれてきたわけではないからです。
それでは、何をすればいいのでしょう?実篤は、人間のすべきことは自己を完全に生かすように努力することと、隣人の為に尽くすことである、と説きました。

これを受けて、「無心、自然、というキーワードはどこへ行ったんだ!」と思った方もいるかもしれません。
ただ、実はここでもやはり「自然」というキーワードが存在し続けているのです。

精神の喜びは人類全体の喜び

実篤は、肉体は個人的なものであるのに対して、精神は人類(人間の集合)全体の健全な発育の為にある、と考えていました。

まず、前項で書いた通り、人間は何かをする為に生まれ、成長することを欲しています。
つまり各個人は自己の成長を求めるのです。

しかし、これは何もただ利己的な成長を求めることに終始する、というわけではありません。
まず各個人が成長をすることによって世の中のあらゆるものが少しずつ改善されます。次に改善したものによって過去の好ましくないものは淘汰されます。そしてその変化・成長の流れはいずれは人類全体に還元され、ついには人類の進歩に繋がるのです。

自然によってもたらされた人間は成長を求めますが、その集合である人類という集団もまた、成長を求める、という自然の性質を持ちます。その総体の成長の為に各個人の成長の欲望があり、他人に迷惑をかけない範囲でその欲望を満たすことが結果的に人類の成長に繋がるのということです。

各個人の精神を充足させ、喜ばせることは、結果的に人類全体の成長・喜びに等しいということを実篤は主張しているのです。

まとめ

まとめ
実篤の名言を彼の人生論を元にして読み解くことで、複雑な人生をそのまま捉えるのではなく、「自然」というキーワードを元に捉えることで向かうべき先の指針が得られる、ということが分かりました。

人間は自然によって生み出されたものであり、生きていく上で感じる全ての苦痛や喜びもまた自然によって与えられたものです。
そして、人生の向かうべき方向もやはり自然への調和なのです。

ただ、これは何もただ生きて子孫を残せ、というわけではなく、自己の成長への努力と隣人へ尽くすことを健康な肉体を維持しながら行うことを目指すべきで、それが結果的に人類全体の成長へと繋がる、ということでした。

ここから、私たちの人生の捉え方の大きな誤解に気づかされます。

人生とは、各個人に与えられた個別のものではなく、人類・自然といった大きな枠組みの中の一つなのです。

人生を自分の側の視点から捉えようとしてしまうと、本当の意味での人生を理解することが出来ず、複雑に考えることしか出来ないのです。より大きく、そして自分の外側にある視点から「自然」をキーワードに人生を捉え直すことで、幾分か人生への向き合い方のヒントが得られるはずです。

人生に向き合うための視点の解説の図

きっと、人生とは難しく全体を考えすぎたり逆に簡易的に捉えすぎたりするべきものではなく、自然に存在する大きな枠組みの中の一つである、という切り出し方をし、個人の成長を求めることこそが大切なのです。

参考書籍

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平日の全てを仕事に、土日の全てを遊びに費やす東大理系院卒ベンチャー社員