歴史・名言

【名言】尊敬できる人との仕事〜島秀雄,新幹線開発決断の時〜

日本が世界に誇る「新幹線」。
新幹線が初めてその姿を現したのは1964年,東京オリンピック開催目前のことでした。

その新幹線の生みの親と言われる人物が2人います。
強力なリーダーシップで新幹線計画を押し進めた国鉄総裁・十河信二(1884-1981)と,国鉄技師長・島秀雄(1901-1998)です。
今回は,天才エンジニアと謳われた島秀雄さんの,新幹線誕生にまつわる決断についてご紹介したいと思います。

偉大なる父

子を抱く父親

島さんは明治34(1901)年,大阪に生まれました。父は明治・大正期の日本の鉄道界を支えた大御所鉄道技術者の島安次郎です。
「ハチロク」の愛称で知られる8620形や,同じく「キュウロク」と呼ばれる9600形といったSLの生みの親で,当時の鉄道省の重役を務めていました。
安次郎はその後半生において,「広軌改築」を悲願とします。
明治政府は,鉄道技術を外国から日本に輸入する際,世界のスタンダードであったレールの幅である「標準軌(1435mm。日本では広軌とも呼ばれる)」ではなく,イギリスの植民地型規格であった「狭軌(1067mm)」を採用してしまいます。
レールの幅の広さというのは,その上を走る車両の横幅や重さや出せる速度,つまりは輸送力に直結します。
当時,鉄道業界関係者を中心に広軌導入を求める声は根強かったのですが,狭軌の方が導入コストが安いこともあり,早期に低コストで広範囲に鉄道網を張り巡らせたいという政府の考えから狭軌の採用が決まったのでした。

これに憤慨した安次郎は鉄道省を辞任。広軌の超高速鉄道「あじあ号」の開発を進めるため満洲鉄道の理事として満州に渡ります。

ところが,戦争の足音が近づきつつあった昭和14(1939)年,ある国家的プロジェクトが立ち上がります。
弾丸列車計画
全線に広軌レールを使用し,時速150kmの高速列車を走らせることにより,東京-大阪間を4時間半,東京-下関間を9時間で結ぼうという壮大な計画でした。
この時の検討資料に初めて「新幹線」の名前が登場します。
結局,戦局が混乱を増す中で計画は頓挫しますが,この時に着工された一部の区間は現在の東海道新幹線でもそのまま使用されています。

このプロジェクトの際に安次郎は鉄道省に呼び戻され,鉄道省職員となっていた島さんと共に働くことになったのでした。

父には別に”鉄道をやれ”とは一言も言われたことはなかったが,そこにはやはり目に見えない大きな影響があったように思う。
鉄道に入ったときも,まさか父が鉄道省に戻ってきて,同じ職場で働くことになるとは夢にも思わなかった

国鉄総裁・十河信二の誘い

スーツ姿のビジネスマン

戦時中,日本の鉄道は空襲の標的となり,徹底的に破壊されました。
戦争はさらに激しさを増し,島さん自身も弟を空襲で亡くします。
物資もない中で,鉄道省には仕事らしい仕事がありませんでした。
島さんはそんな中,若い職員たちを集めて電車列車の研究を始めました。

やがてくるはずの電化の時代にそなえて,思う存分,設計図を書かせていた。上に知れるとしかられるので,こっそりとやっていたが,今考えて,あんなに夢にあふれた時期を,私は知らない

日本という国自体がどうなるか分からない状況の中で,島さんの頭の中には,蒸気機関車に替わって電車が鉄道の主役になる時代のビジョンがはっきりと描かれていたのです。
島さんは後年,「いつごろから新幹線を研究し始めたのか」と人から聞かれると,この頃のことを思い出していたと語っています。

島さんは,かの蒸気機関車の傑作,D51の設計主任も務めていました。

D51
D51

戦後は東海道・山陽本線の急行牽引機としてC62を設計し,昭和23(1948)年にデビューさせます。

C62
C62

しかし,昭和26(1951)年,国鉄史上例を見ない鉄道事故が起こります。
「桜木町事故」です。京浜東北線の電車のパンタグラフが架線に引っかかり,垂れ下がった架線が電車の木製屋根と接触して発火,死者106名を出す大事件となったのです。
事故を起こした63形電車は,島さんの設計でした。これに心を痛めた島さんは,改良の目処をつけると辞表を提出して国鉄を去ります。
鉄道省に入賞して勤続26年目のことでした。

63形電車
63形電車

そんな島さんを国鉄に呼び戻そうとしたのが,国鉄総裁に就任した十河信二でした。
昭和30(1955)年のことです。
当時,島さんは住友金属工業に移って取締役を務めていました。

外部からいくらでも応援しますから

島さんは国鉄に戻ってほしいとの十河の依頼を固辞します。
しかし,十河は諦めず再度直談判に乗り出します。

「君の親父は,広軌改築になみなみならぬ苦労をささげながら,ついに実現できずに,恨みを飲んで死んでいった。君にはその子として,親の偉業を完成する義務があるじゃないか。」

とうとう島さんは依頼を引き受けることを決断し,技師長として国鉄に復帰します。

これに応えるように,十河も奮闘します。東海道新幹線の建設には,当時の額で本来3000億円以上の資金が必要です。
十河は「これじゃ高すぎる。半分にしてくれ」と言い放ち,総工費1972億円という見積もりを国会に提出し承認されました。
十河はその人並外れた胆力で,国会の目を欺いて広軌新幹線の建設を始めさせたのでした。

新幹線建設プロジェクトは,D51やC62や湘南電車など数々の名車を設計してきた島さんにとっても非常に難しい仕事でした。
それまでは車両の設計に集中できたのですが,何しろ日本初の広軌長距離鉄道の建設です。
東京-大阪間500kmを時速200kmで駆け抜ける全く新しい鉄道の実現に求められるのは,車両だけではありません。
駅・トンネル・信号・橋・電力系統・運転管理…考えなければならないことは実に多かったのです。
島さんは技師長という立場で,一設計者としてではなくプロデューサーとしてこのプロジェクトを統括しました

ビッグ・プロジェクトに取り組む場合,あらゆる条件を考慮して,もっとも合理的な体系を作ることが重要である。
膨大な情報,技術を有効に組み上げて活用し,目的を達成すること。
つまりシステム工学的な発想が必要なのである

後年,この頃を振り返った島さんの言葉です。

さて,新幹線は確かに非常に画期的な高速鉄道です。しかし意外なことに,用いられている技術は,戦前からの鉄道技術を集めたものであり,全く革新的な技術の集合体ではありませんでした。

新幹線には,未経験の新技術は原則として使っていない。
むしろ既存の,経験済み技術の集大成である

この理由として,新幹線プロジェクトには東京オリンピックまでという期限を区切られていたことが挙げられます。
その一方で,絶対の安全性が求められていました。
島さんは一度,前述の桜木町事故をきっかけに国鉄を去っています。
安全に懸ける想いは人一倍で,そのためにも未知の新技術は使うわけにはいかなかったのです。

「夢の超特急」開業

昭和39(1964)年10月1日,早朝。
東京駅9番ホームでは,大阪行きの新幹線ひかり1号の出発式式典が行われていました。
新橋-横浜間に最初の「陸蒸気」が走ってから実に92年の歳月を経て,多くの鉄道人の悲願であった広軌高速鉄道がついに達成されたのです。
東京都知事,大阪府知事など多くの来賓が列席する中,しかし,その場に十河や島さんの姿はありませんでした。

2人とも,開業を目前にした昭和38(1963)年に国鉄を去っていたのです。
十河が5月に国鉄総裁の任期を迎え,先述の建設予算の不足を問題視され,反十河派に座を追われた結果でした。

島さんの技師長としての任期は残っていましたが,十河と進退を共にする覚悟でした。
十河から特に請われて,十河を助けるために国鉄復帰を決めたからというのがその理由でした。

もし赤字問題で十河総裁が引責辞任するのなら,実際に新幹線建設を指揮した技師長の自分にこそ,最大の責任があるはずだ

こうして島さんは出発式の様子を自宅のテレビで見て,出発したひかり1号を高輪の自宅の窓越しに見送りました。
同日,元秘書から出発式に招けなかったことを詫びられた元国鉄総裁・十河は,静かにこう語ったといいます。

「なに,無事走ってくれさえすれば,それでいいんだよ」

島さんが決断した理由

ひまわり畑の道

一度は去った国鉄に復帰することを島さんが引き受けた時,その胸には何があったのでしょうか。
私は,2つの大きな理由があったと考えています。

島さんが決断した理由
①十河の助けになりたいという想い
②広軌鉄道へのエンジニアとしての想い

①十河の助けになりたいという想い

直接的な理由として大きかったのは,やはり十河信二の助けになりたいという想いだったでしょう。
十河は熱血総裁で独断専行の面があり,国鉄内の敵は少なくありませんでした。
総裁就任当初,新幹線計画のための予備調査を側近たちに命じても「じいさんの夢物語」と笑われ,まともな報告書すら上がってこない状態だったといいます。
そんな孤軍奮闘ともいえる十河を,技術面から助けたい。
そんな想いが島さんにはあったのではないかと考えられます。

②広軌鉄道へのエンジニアとしての想い

島さんが一生で最も尊敬する人物として名前を挙げたのが,国鉄総裁・十河信二と父・島安次郎でした。
その父が心血を注いだ広軌鉄道を自分の手で設計する機会が巡ってきた。
十河の説得の言葉にあったように,父の想いを継ぐという想いがあったのは事実ではないかと思われます。
ただそれ以上に,誰も見たことがない高速鉄道の設計に携わることに,エンジニアとして純粋な高揚感を覚えたのではないでしょうか。
また,かつて自分が設計した電車が起こした事故の責任を取る形で辞職した国鉄に復帰したからには,今度こそ絶対に安全な高速鉄道を作り上げたいという使命感があったように思われます。

島さんの仕事から学べること

では,島さんの決断・仕事ぶりから私たちは何を学べるのでしょうか。

まずはやはり,尊敬できる人と共に働くということが,仕事で高パフォーマンスを発揮する上で重要になるということ。
そして,自分の中で「これは譲れない」という仕事における軸を持つことです。
島さんの場合,その一つが徹底的に安全性にこだわることだったと考えられます。

そして,全く新しいものは,実は古いものの組み合わせ,掛け合わせによって生まれることもあるのだということも学ぶことができます。
新幹線は,ある日突然生まれた未知の新技術ではなく,約1世紀前の新橋-横浜間の鉄道開通以来の技術の積み重ねによって誕生したのです。

それでは最後に,苦しい状況の中でも未来を信じ,自分の仕事への信念を貫き続けた島さんの名言をご紹介してこの記事を終えたいと思います。
最後までお読みいただき,ありがとうございました。

「出来ない」と言うより,「出来る」と言う方が易しい。

なぜなら「出来ない」と言うためには,何千何百とある方法論の全てを「出来ない」と証明しなければならない。

しかし,「出来る」と言うためには,数々ある方法の中からたった一つだけ「出来る」と証明すればいいからである。

参考書籍

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猫と糖分を愛する経営コンサルタント