誤用・誤訳

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は誤訳!?本来の意味とその出典とは

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は誤訳!?本来の意味とその出典とは

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉、よく聞きますよね。
「身体を鍛えて健康で頑丈な肉体を維持すれば精神も自ずと健全なものとなる」といった意味で使われることが多いですよね。

実はこの言葉、原典の誤訳が広まってしまっているということ、ご存知でしょうか。

私も幼い頃、母親からこの言葉を引用してしつけを受けた記憶があるため、初めて知った時は若干の衝撃を受けました。

この記事では、

  • この言葉の本来の意味と出典
  • 何故誤訳が広まったのか
  • 本来の解釈
  • 本来の解釈から得られる示唆

について書いていこうと思います!

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は誤訳!?本来の意味とその出典とは

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は誤訳!?本来の意味とその出典とは
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉の出典は、デキムス・ユニウス・ユウェナリス(60-128)の詩集、『風刺詩集 (Satvrae) 』の第10歌です。

“orandum est, ut sit mens sana in corpore sano”という言葉が元であり、その訳としては、

ユウェナリスの詩


どうか、健全な身体に健全な精神を与え給えと祈るがいい。

デキムス・ユニウス・ユウェナリス

が正しいものとなります。

これは健全な身体を維持することで自然と健全な精神を手に入れることが出来る、という意味ではありません。
健全な身体を持つことでさらにその先を求めて欲深になることを避けるため、健全な精神を持つ者、つまり賢人になることを誓え、ということなのです。

詳しい解説

詳しい解説
それにしても、あまりにも有名なこの誤訳、何故生まれてしまったのでしょうか?
そして、原典での本来のユウェナリスの意図とはどのようなものだったのでしょうか?

何故誤訳が広まってしまったのか

ここについては、ハッキリとしたことは調べられませんでした

あくまで巷で囁かれる噂レベルの話になってしまいますが、軍国主義を押し進めるためのスローガンとして第二次世界大戦時に恣意的に改竄して用いられた、という説があります。

当時の戦争は現在のコンピューターや機械が活躍する戦争と比べると圧倒的に人間の肉体を頼りにした戦争でした。
兵士の頑丈な肉体が戦力のパラメータのうちの重要な要素の一つであったことは疑う余地もないでしょう。

そのような状況下において誤訳を用いてでもスローガンとしてユウェナリスの詩を引用する必要はどこにあったのでしょうか?
私はその理由は大きく分けて2つあると思います。

  1. 単純に戦力の増強につなげる
  2. 思想の統一につなげる

1.の戦力増強に関しては説明するまでもないでしょう。
身体の鍛錬の理由づけとしてこのスローガンを用いることで、戦力の要である兵士の肉体と、将来兵士になるであろう学生・若者の肉体を鍛えることにつなげたのではないでしょうか。

さて、2.の思想の統一について、少しだけ私の考えを書こうと思います。あくまで個人的な見解であるため、ご了承ください。

まず、思想を統一したいのは誰でしょうか?
軍国主義の時代において、それは政府や軍部のトップであることは間違いありません。

国の全資本を戦争に投下して戦争を勝ち抜くためには、国民に対するトップダウン型の支配が必須となります。
大日本帝国やナチス・ドイツの体制を見ることでそれは理解できるでしょう。

国民の思想の統一をすることが画一的な支配に繋がるため重要となりますが、私はここに今回のテーマであるユウェナリスの詩を悪用したのではないか、と考えました。

ユウェナリスの詩の誤訳の中の「健全な精神」とは何を指すのでしょうか?
軍国主義のスローガンとして使われた、という説が正しいのであれば、それはおそらく「軍国主義に則り、国の勝利のために全てを捧げる覚悟」のようなものだったのではないでしょうか?

当時の学校教育などでもこのような思想に則った教育が行われたのはもちろんのこと、国の方針とそぐわない、都合の悪い思想を抱いている者を見つけた場合に今回のスローガンを引用し、

「健全でない精神を持っているお前は健全な肉体を持っていないからだ」

と判断して肉体的に追い込む理由としてこじつけられたのではないでしょうか。

もしかしたら学校での体罰教育や軍での訓練に使われ、反体制的な思想を持つ者に対して肉体的な苦痛を与えることで思想の変更を強制させたかもしれません。

ここまで述べたことは若干の事実に基づく憶測に過ぎませんが、この誤訳の背景にはそのような歴史的事実が隠されていたのかもしれません。

本来の解釈

ユウェナリスの原典での本来の詩の意味を、詳しく見ていきましょう。

『風刺詩集 (Satvrae) 』第10歌の主題は、「我々は神々に何を祈るべきか」という問いです。
参考書籍に挙げた国原吉之助氏の訳では、この第10歌に対して『人間の願望の空しさ』という、原典にはない表題を与えています。

この詩の中での人間の欲望として、財産、政治上の権力、軍事上の権力、仕事の成功、長寿等が挙げられています。

しかしどの欲望も、たとえ叶えられたとしてもその身を滅ぼすことに繋がる、ということが説かれています。

人間は未来を見通すことが出来ないため、欲望を持って願うことがその身を滅ぼすことに繋がる、ということが分かりません。それ故破滅してしまうのです。
一方神にとっては生まれた子供がどのような人間になっていくかは全てお見通しで、神の与えるものは祈りを捧げた人間が喜ぶものではなく、その人間に最もふさわしいものを与えるのみなのです。

それならば、我々は神に対して何を願えば良いのでしょうか?
未来を見通せない我々人間が、未来を見通せる神に対して何を願ったところで、結果は変わらないのではないでしょうか?

ユウェナリスは、欲望を祈りとして捧げるのではなく、人生の終わりを自然の恵みであると捉えられるほどに、そして死の恐怖を断つほどに強靭な精神を与えるよう願え、と説きました。

何か自分にないものを与えられることを願うのではなく、苦悩に耐えて、欲望を抑え込み、常に平常心を保つことで自分で自分を満たすことができるような心。
これこそを健全な精神であるとし、ユウェナリスはこのような健全な精神を持った賢人であることを誓うよう薦めているのです。

まとめ

まとめ
私たち人間は、自分がこの先どうなっていくのか、ということに対して答えを出すことは出来ません。
だからこそ身の程に合わない願いを立ててしまい、その結果身を滅ぼすことに繋がる、ということをユウェナリスは説いていていたのです。

ユウェナリスは、神は未来までの全てを見通していて、それぞれの人間に最もふさわしいものを与えるのみだ、としました。
これはつまり人間の運命は生まれながらにして決まっていて、その運命の苦痛に耐える精神力だけは神に祈りを捧げることで手に入れることが出来る、と説いているように受け取れます。

このような運命論的な考え方を目の前にすると野望を抱くだけ無駄なような気がしてしまいます
しかし一方で、そのような願いを諦めるべきだ、と説き伏せられていると単純に捉える必要もないように思えます。

現にユウェナリスの詩の中でも「破滅」に繋がるような見かけ上の成功者は挙げられていて、彼らもまた欲望を持ったからこそその願いを叶えることが出来たのでしょう。
結果的に彼らは破滅してしまいましたが、それはつまり神の与える最もふさわしいとする運命に抗うことが出来たことの証拠でもあります。

私はユウェナリスのこの詩から2つの示唆が得られるように思います。

  1. 運命は決まっているのだから、その運命に耐えるだけの精神を与えるよう祈れ
  2. 破滅を恐れなければ運命に抗うことはできる

何も願うことなく平穏に人生を終えるのか、それとも自分の身を滅ぼすことになろうとも自分の望むことを叶える人生とするのか

ユウェナリスの詩はその2つの選択肢を提示していて、私たちにその選択を委ねているのではないでしょうか。

参考書籍

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平日の全てを仕事に、土日の全てを遊びに費やす東大理系院卒ベンチャー社員