名言

【名言】厳しい現実に立ち向かう〜岩崎小弥太,三菱財閥解体決断の時〜

理想と現実の狭間でもがき苦しむ。
人生で誰もが一度は経験するであろう苦しい場面です。

今回は,そんな苦しさを何度も乗り越え続けた偉人「岩崎小弥太」(1879-1945)をご紹介します。

岩崎小弥太は,日本人なら知らない人はいない「三菱グループ」の前身である三菱財閥の4代目総帥であった人物です。

世界恐慌に関東大震災,そして第二次世界大戦。
現在世界を覆っているコロナ・ショックに匹敵するレベルの災難が日本を襲った激動の時代を駆け抜け,終戦を迎えた三菱財閥を待っていたのは,マッカーサー率いるGHQからの「財閥を解体せよ」という一方的な命令でした。

小弥太はこれに猛然と反対します。
彼の胸にはどんな思いがあったのか。
財閥解体に立ち向う決断の瞬間に迫ります。

岩崎小弥太という人物

旧岩崎邸

小弥太を語る上で,三菱財閥の成り立ちを避けて通ることはできません。

三菱財閥は,かの坂本龍馬とも交流があったと言われる岩崎弥太郎が一代で興した事業を大成功させ,岩崎一門が舵取りを行う巨大企業グループでした。

財閥初代総帥は弥太郎。
2代目が弥太郎の弟である弥之助。
3代目が弥太郎の息子の久弥。
そして,4代目が今回の主人公にして2代目弥之助の息子である小弥太です。

小弥太は1879(明治12)年,2代目総帥の弥之助の長男として東京に生まれました。
母は後藤象二郎の娘であり,非常に恵まれた生まれであったと言えます。
名門の第一高等学校を卒業し,ケンブリッジ大学で歴史学を専攻します。

小弥太は,熱い理想に燃える青年でした。
ヨーロッパの成熟した政治制度や教育方法を見るにつけ,日本の腐敗した政治や詰め込み型の教育に強い問題意識を抱いていました。

母方の祖父である後藤象二郎が政治家であったことも影響したのか,将来は政治家になりたいと考えていたようです。

ところが,小弥太の父にして当時の三菱財閥総帥であった弥之助は,小弥太に対して三菱財閥の副社長に就任するよう要請しました。

もし実業界に対し自分の考えを思う存分にやらせて貰えるならば,御命令に従います

この要請を引き受ける時,小弥太が発した言葉です。
小弥太にとって,三菱への所属は決して望んだ選択ではありませんでした。

暗い時代の中で

1916(大正5)年,小弥太は3代目総帥の久弥から財閥総帥の任を引継ぎます。

堅実な経営の久弥に対し,小弥太が取ったのは拡大路線でした。
三菱重工業の設立を始めとして,グループの拡大を図り,三菱造船・三菱電機・三菱化成など財閥を形成する主力企業が出揃いました。

一方,時代の暗い影が日本と世界を覆い始めていました。

1923年9月,関東大震災が発生。
激しい火災により,駿河台にあった小弥太自身の自宅も焼失しましたが,三菱は当時の東京市(現在の東京都)に多額の寄付を行うなど復興に尽力しました。

1920年代末の金融恐慌は日本企業に甚大な影響を与え,三菱・三井・住友・安田に次ぐ勢いだった古河・藤田などの企業グループですら厳しい経営状態に陥りました。

この頃から,小弥太自身の体調も思わしくなく,不眠症と神経症に長く悩まされることになります。

そして,日本は戦争へと突入していきます。
本土への空襲が始まり,日本各地の三菱の工場や支社で殉職者が出たり,戦争に送り出されて戦地で命を落とす従業員が出てきました。
小弥太は自ら祭主となり,6回にわたって追悼法会を開催します。
追悼者は3000名を超えたといいます。

小弥太は,戦時体制を強化していく日本政府の姿勢に批判的でした。

軍部や出先官僚の鼻息を窺い,不当の利権を得ようとする者が多いのは苦々しい。
(中略)会社の利益のために不正手段を弄するようなことは絶対に慎んで貰いたい

この頃の小弥太の言葉です。
絶対に政府や軍部に歩み寄り利益を貪ることはしない。
三菱は,あくまで社会や国民全体に奉仕するべきなのだという思いがあったのかもしれません。

そしてとうとう,日本は終戦を迎えます。

玉音放送を聞き,涙が滴るのを止めることができなかった。

不可能を可能にしようとして渾身の努力を続けてきたが,事ここに至っては心身の疲労を覚える

終戦翌日の小弥太の言葉を簡易な現代語訳にしたものです。
不調を訴える体に鞭を打つようにして走り続けてきた小弥太の,絞り出すような思いが表れています。

決断の時

敗戦国となった日本を待ち受けていたのは,GHQによる支配でした。
GHQは,日本を戦争へと突き動かした軍部や政府を厳しく追及したのみならず,財閥をその経済的後ろ盾と見做して厳しく批判しました。
そして,1945年秋。
ついに財閥解体の命令が下されます。
GHQのクレーマー大佐は10月に声明を発し,「財閥解体はあくまで日本側の自発的な財閥解体の動きに期待するが,日本側が適切な手を打たないのであれば正式に命令を出す」ことを明言しました。

クレーマー大佐の意図は,以下のようなものでした。

①財閥は戦争中巨額な不当利益を得たが,彼等から戦時利得を吐き出させ,すべての日本人は戦争が決して有利な事業ではないということを,深く脳裏に刻みつける
②全体主義的な独占力を持った経済力を破砕する

こうして10月下旬までに安田・三井・住友の各財閥は自主的な解体を受け入れました。
そして,最後に残ったのが,小弥太率いる三菱財閥でした。

小弥太は,三菱の解体自体には決して反対ではありませんでした。
ただ,小弥太がどうしても受け入れ難かったのは,財閥解体を「自主的に」行わなければならないという点でした。

小弥太には,三菱が初代総帥の弥太郎の時代から国家社会のために尽くしてきたという自負がありました。

総司令部は財閥は過去を反省して自発的に解散せよというが,三菱は国家社会に対する不信行為は未だかつて為した覚えはなくまた軍部官僚と結んで戦争を挑発したこともない。

国策の命ずるところに従い,国民として為すべき当然の義務に全力を尽くしたのであって,顧みて恥ずべき何ものもない

この頃の小弥太の言葉です。
クレーマー大佐は,財閥こそ戦争の陰で巨利を貪っていた「死の商人」であり,日本の民主化を遅らせた原因と考えていましたし,GHQや連合国も多かれ少なかれ同様の見方をしていたと思われます。

しかし小弥太は,株式公開をするなどむしろ同族経営からの脱却と経営の民主化を進めていました。
少なくとも彼自身が岩崎一族の地位に恋々としていたとは考えにくいです。

最後まで抵抗した小弥太ですが,GHQはそれ以上の抵抗を許しませんでした。
日本政府内部からも「善処」するように求められた小弥太は,あくまで自主的な解散には否定的な見方を政府に伝えつつも,10月22日に本社幹部を集めて本社解散の準備を進めるように指示しました。
岩崎小弥太の,三菱財閥総帥としての最後の決断でした。

小弥太はその後,解体の交換条件として,これまで支えてくれた株主たちに最後の配当を行うべく奔走します。
そして1945年11月1日,三菱財閥は正式に解散を決定しました。
約1ヶ月後の12月2日。小弥太は三菱の最後を見届けるようにして,この世を去ったのでした。

小弥太の決断から学べること

詳しい解説

では,小弥太の生き方・決断から学べることを考えてみましょう。

小弥太の人生は,「不本意」の連続でした。
青年時代に志した政治家になることは敵わず,その後も暗い時代の中で,彼の思い描いたような経営はなかなかできず,そして最後には一生を賭してきた三菱が解体されてしまいます。
理想家といわれる小弥太にしてみれば,自分の思い描いた理想がなかなか実現されないことの多い人生であっただろうと考えられます。

そもそも小弥太にとって三菱での仕事は望んだものではありませんでした。
夫人も「小弥太は三菱の仕事が嫌で,無理にやらされていたんです」と後に語っています。

彼の生き方・決断の特徴は「理想を持ちつつ,それを現実にどう落とし込むかを考え抜く」こと,そして「望まぬ選択の中にも自分なりの意義を見出す」ことです。

理想家である一方,小弥太は常に現実家でもありました。
自分の理想に固執するあまり失敗する例は古今枚挙にいとまがありませんが,小弥太は常に全体を見渡して適切な判断を下し続けました。
そうした彼だからこそ,不本意にも三菱総帥の座についても財閥を拡大することができたのでしょう。

そして,望まぬ選択をした場合でも彼はそこに自分なりの意義を見出し続けました。
小弥太が終生貫いたのは,「国家社会への奉仕」でした。
ここでいう国家社会とは,政府や,ましてや軍部などのことではありません。
国民一人ひとりの生活が豊かになるよう自分にできることを全力で行うというのが,彼の変わらぬ信念であり,仕事の意味でした。

小弥太の信念
①理想を持ちつつ,それを現実にどう落とし込むかを考え抜く
②望まぬ選択の中にも自分なりの意義を見出す

理想と現実の間でもがき苦しみつつ,暗い時代の中を駆け抜けた最後の三菱総帥・岩崎小弥太。

最後に,終戦を迎えた時,彼が日本の将来を見据えて残した言葉をご紹介して終わりたいと思います。

最後までお読みいただき,ありがとうございました。

戦も遂に負けた。
武力を以て征服しようとする者の過誤を日本国民は今こそ明らかに悟らなければならない。

今にして悟るところがあるならば,本来平和を愛する我が国民は将来禍を転じて福となし,神国に恥ざる国を作り上げることが出来るであろう

参考書籍

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猫と糖分を愛する経営コンサルタント