歴史・名言

【名言】信念と組織の狭間で〜杉原千畝,命のビザ発行決断の時〜

人生は選択の連続。
人生の中で特に大きな選択,人はそれを「決断」と呼びます。
今なお語り継がれる歴史上の人物たちが,その人生の中でどのような「決断」を迫られ,何を迷いどう考えてその「決断」を下したのか。

このシリーズでは偉人たちの知られざるエピソードや残された名言から彼らの人物像に迫り,現代を生きる私たちが彼らから学ぶべき教訓を得ていきます。

第一弾として本日ご紹介するのは,「杉原千畝」さんです。
第二次世界大戦が暗い影を落とす時代。
ナチス・ドイツの魔の手を避けようとヨーロッパ各地から逃れてきたユダヤ人たちに,外交官としてビザを発行し続け,6000人ものユダヤ人たちの命を救ったのが杉原さんでした。

現在では教科書に載るなどして世界的に有名な日本人外交官ですが,このユダヤ人たちへのビザ発行は,当時の外務省の命令に背いて杉原さんが独断で行なったことでした。
組織に背いてビザ発行を決断したとき,彼の胸にあったものは何か。
組織と自分の信念が食い違ったとき,杉原さんが自分の信念を貫けた理由に迫りましょう。

杉原千畝という人物

まず,杉原千畝さんがどのような人であったかを解説します。

杉原さんは1900年1月1日,岐阜県に生まれました。
税務署の職員だった父親には「医者になれ」と言われて育ちますが,医学に興味が持てずに,親に逆らって東京の早稲田大学に進学します。

ある日,新聞で見かけた外務省留学生の募集試験に興味を引かれて応募し,猛勉強の末に見事合格。
陸軍での軍隊経験などを経て,1932年に当時の満洲国外交部に所属します。
当時から語学の才能と優れた情報収集能力を発揮し,20代にしてソ連の経済構造や社会体制などを記した600ページに
およぶ著書を執筆するなど頭角を現します。

その後,リトアニアのカウナスという都市に領事として家族(夫人と息子2人)と共に赴任します。
このカウナスこそ,「命のビザ」の物語の舞台となる場所でした。

押し寄せたユダヤ人難民

1940年7月18日,早朝。カウナスの街外れの高台に位置する日本領事館の周囲を,大勢の人がびっしりと取り囲みました。

「ユダヤ人難民だ」
ヨーロッパでのユダヤ人迫害を知っていた杉原さんは直感し,数日後にユダヤ人の代表5人から話を聞きました。

「日本通過のビザを発行してほしい」
これが彼らの願いでした。
主にポーランドでのナチス・ドイツの迫害から逃れてきた彼らは, ソ連や日本を通過してアメリカなどに移住しようと考えていました。

しかし,一領事である杉原さんに,何百人・何千人にも上るユダヤ人たち向けのビザの発行権限はありません。
杉原さんは外務省本省に3回にわたって電報で状況を報告し,ビザ発行の許可を求めます。
しかし,外務省から届いた返事はいずれも「No」。この時,日本はドイツ・イタリアとの同盟関係を結ぼうと動いていました。
むしろドイツの味方である日本に,ドイツが目の敵にしているユダヤ人を積極的に助ける理由はなく,むしろそうした援助はドイツとの火種を生みかねないのは明白でした。

さらに,外務省は杉原さんに対してリトアニアからの早期退去を命じます。
リトアニアがソ連に併合されることとなり,ソ連からも度々退去を促されている危険な環境であったためです。
ソ連が,外務省きってのソ連通である杉原さんの能力を警戒していたことも退去命令の大きな理由でした。

決断の時

こうした苦しい状況の中,杉原さんは決断を下します。
「ユダヤ人たちに,ビザを発行しよう」
この判断は,完全に外務省の命令に背いたものでした。当時の規定で,昇進停止か失職が定められた行為です。

この時,杉原さんの胸で揺れていたものは何でしょうか。
ビザを発行すれば,大勢のユダヤ人たちの命が救われる。
一方で,自分の外務省での職が危うくなるのはもちろん,ナチス・ドイツから処罰される可能性も当然考えられました。

「大丈夫だよ。ナチスに問題にされるとしても,家族にまでは手は出さないだろう」
この時の杉原さんの言葉には,自分の身を犠牲にする覚悟が滲んでいました。
「ここに100人の人がいたとしても,私たちのようにユダヤ人を助けようとは,考えないだろうね。それでも私たちはやろうか」
杉原千畝さんが,ビザ発行を決断した瞬間でした。

こうして命がけのビザの発行が始まりました。
ろくに食事もとらず,昼も夜もなく杉原さんはユダヤ人一人ひとりに手書きでビザを発行し続けました。
腕が痛みで動かなくなるのも厭わず,1日に300人分を超えるペースでビザを書き続けたのです。
とうとうソ連と外務省からの最終退去命令が通達され,杉原一家は9月上旬にベルリンへと旅立つことになります。

ベルリン行きの列車がホームから出発するその瞬間まで,杉原さんはビザを書き続けました。
そしてとうとう列車が走り出し,杉原さんはビザを書くことができなくなります。
「許してください。私はもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」

ユダヤ人たちは列車と並んで泣きながら走ってきたと言います。
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」

その後

1945年8月,日本はポツダム宣言を受諾し全面降伏しました。
杉原一家はルーマニアでそのニュースを告げられ,ソ連兵により収容所に収容された後に日本に送還されることとなります。
命がけでソ連領内を8ヶ月間ほどかけてたどり着いた祖国・日本で杉原さんを待っていたのは,外務省からの事実上の解雇という事態でした。
表向きは杉原さん自身の依願退職という形ですが,外務省の命令に背いてユダヤ人たちにビザを発行した件の責任を問われたことは明らかでした。

その後,戦後20年以上経って杉原さんはユダヤ人たちに再会します。
ビザによって命を救われたユダヤ人たちはかつての約束通り,戦後になっても命の恩人「スギハラ」を探し続けていたのでした。

1985年,杉原さんはイスラエル政府から日本人として初めて「諸国民の中の正義の人」の勲章を授与されます。
これは,非ユダヤ人でありながらユダヤ人をナチスの脅威から命がけで守り抜いた人を称えるイスラエルの最高勲章です。
世界的にも杉原さんの功績が知られるようになり,2000年には外務省の外交史料館に杉原千畝さんを称えるモニュメントが設立されます。
外務省が,杉原さんの人道的判断の正しさを認めた瞬間でした。

杉原さんが決断できた理由

さて,それではなぜ杉原さんは大きな決断を下せたのでしょうか。
私は,二つの理由が考えられると思います。

①人生の中で,自分の信念を貫く判断を重ねてきた

杉原さんは「信念の人」でした。
父親に医者になれと言われたのに背いて上京し,親からの援助も無いためいくつものアルバイトを掛け持ちした日々。
満洲国外交部では実力を認められていたにも関わらず,日本人の中国人に対する扱いの酷さに辟易して辞職しています。
また,高圧的なナチスの重鎮・リッベントロップに対して堂々と自分の意見を述べて彼を驚かせました。

このように「自分が正しいと思うこと」を常に貫いてきたからこそ,人生最大の難所とも思えたカウナスでのビザ発行についても,
組織の命令に背いてまで信念を守り通すことができたのではないでしょうか。
もし,「自分の意見とは違うけど,ここは長いものに巻かれておこう」という判断をしてきた人であれば,この奇跡は決して起きなかったでしょう。

②自分の信念を全肯定してくれる人(フォロワー)がいた

難しい判断を迫られた杉原さんは,決して最初から一人で確固たる判断を下せたわけではありませんでした。
「ここで振り切って国外へ出てしまえば,それでいい。それだけのことなんだ」
二度目の電報を外務省へ打った後,悩んだ杉原さんが妻の幸子さんに発した言葉です。

「それはできないでしょう。これだけの人たちを置いて,私たちだけが逃げるなんて絶対できません」
幸子さんは,夫の杉原さんの信念を誰より理解し,肯定してくれた人でした。
こうして自分の信念をしっかりと肯定してくれる強力なフォロワーがいたからこそ,杉原さんはブレずに信念を貫けたのでしょう。

杉原さんが決断できた理由
①人生の中で,自分の信念を貫く判断を重ねてきた
②自分の信念を全肯定してくれる人(フォロワー)がいた

組織には組織の論理があります。
そして,それが個人の信念とぶつかる場面も,特に仕事の場面においては何度も出てきます。
そうした中で,自分が納得できる選択は何か。その選択のために何が必要か。
杉原さんの決断は,私たちにそう問いかけています。

では最後に,晩年の杉原さんの言葉を紹介して今回は終わりにしたいと思います。

私のしたことは,外交官としては間違っていたかもしれない
しかし,私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることは
できなかった
大したことをしたわけではない
当然のことをしただけです

参考書籍

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猫と糖分を愛する経営コンサルタント