名言

岡倉天心の名言から人生の目的達成の極意を読み解く

岡倉天心の名言から人生の目的達成の極意を読み解く

以前、人生の複雑さにどう向き合えばいいのか、ということについて、武者小路実篤の名言を引用した記事を書きました。

人生の複雑さには、武者小路実篤の人生論を元に向き合おう
人生の複雑さには、武者小路実篤の人生論を元に向き合おう人生とは複雑なものです。その複雑さにどう向き合えばいいのか、分からなくなりますよね。武者小路実篤は、人間は自然によって生み出された、という考えをもち、人生論もその視点に立っていました。この記事では、実篤の人生論と名言を紐解くことで人生への向き合い方のヒントの1つを提供しています。...

前回の実篤の記事の要点

  • 人生の目的は自己成長と隣人へ尽くすことである
  • 人生を自分の側から見ると複雑になってしまう
  • ⇒「自然」をテーマに大きな枠組みから切り出すことで幾分か向き合いやすくなる

さて、今回は人生への向き合い方について、より具体的な内容に迫っていこうと思います。

岡倉天心の名言から人生の目的達成の極意を読み解く

岡倉天心の名言から人生の目的達成の極意を読み解く
人生への向き合い方の具体的な示唆を得るために、岡倉天心(1863-1913)の名言をご紹介しようと思います。

天心の名言


人生にせよ、芸術にせよ、
これからさらに成長していく可能性があればこそ
生き生きしたものとなるのだ

岡倉 天心

岡倉天心の生き方を踏まえた上でこの名言を解釈すると、天心は精神世界の成長を何にも変えがたい悦びであると考え、理想の姿を常に描き、常にそこに向けて成長を求めることが大切だと考えていたのだと分かります。

詳しい解説

詳しい解説
岡倉天心の名言を読み解くためには、天心という人物を詳しく知る必要があります。
ここでは、

  • 彼がどのような仕事を成し遂げたのか
  • どのように周囲の人々と接していたのか

ということから彼の人生への向き合い方について考えていこうと思います。

美術運動家たる岡倉天心

岡倉天心は、明治時代に活躍した思想家・文人・美術運動家でした。廃仏毀釈や西洋美術の流入により衰退してしまった日本美術を保護するため、東京開成所(現:東京大学)で哲学、政治学、理財学(経済学)の講師であったアーネスト・フェノロサの助手として美術品収集を行いました。

フェノロサは美術の専門ではありませんでしたが、日本美術に高い関心を寄せ、天心と活動を共にしました。
フェノロサは特に狩野派の絵画に心酔し、狩野永悳に師事して、「狩野永探理信」という画名を与えられたほどだそうです。

彼らは伝統的な日本画の保護を行うと同時に、これまでの伝統的な手法に西洋画の手法を取り入れる事で日本画を近代化し、新たな日本画を創造しようとしました。

その活動の一環として支援した狩野芳崖が完成させた『悲母観音』は、これまでの伝統的な日本画の技法に遠近法、明暗法、彩色法、構図法等様々な西洋画の技法を取り入れた傑作で、国の重要文化財にも指定されています。

悲母観音狩野芳崖『悲母観音』

その後東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)初代校長となった天心は、学問としての芸術というよりは、「芸術を愛する心」を学生に吹き込むような講義を行い、優れた指導力を持っていました。

西洋画派との対立や色恋沙汰の悪評が立ったなどの理由により東京美術学校から排斥された後は、東京都下谷区谷中に日本美術院を発足させ、その後茨城県北茨城市の五浦に移転させ画家の指導を行いました。

日本美術院では、東京美術学校から引き連れてきた横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山等の後の大家を指導し、第1回文展では日本美術院の門下生が上位を独占する程の指導力でした。

そこで菱田春草が発表した『賢首菩薩』はこれまでの日本画での常識であった「線描き」を捨て、色の濃淡だけで画面を構成した革新的な作品で、国の重要文化財に指定されています。

賢首菩薩菱田春草『賢首菩薩』

このように、岡倉天心は日本画の発展のために尽力し、優れた指導力を持ち、また周囲の人々から非常に慕われた人物でした。

岡倉天心にとっての自己成長

「成長」という言葉には、スキル面の成長と精神面の成長という2種類があります。
天心が大切にしたのは、どちらの成長だったのでしょうか?

まず、スキル面の成長に関して天心の向き合い方が分かるエピソードをご紹介します。

天心は、非常に釣りを好みました。
五浦に拠点を移してからは天気が良ければ毎日早朝から釣りに出かけ、夜も翌朝の釣りの準備をして寝ていました。

釣りには季節によって様々ありますが、天心は季節ごとにその道の名人を呼び、そのコツをマスターするまでは何ヶ月でもその名人と釣りを共にしました。
単なる趣味であるはずの釣りにおいても真剣に取り組み、常に上達を目指した天心は、スキル面の成長において非常に熱心であったことが分かります。

さて、それでは精神面の成長に関してはどうでしょうか。

天心は、数々の偉業を成し遂げながら、ついぞ金銭的な豊かさに恵まれることはありませんでした。
もちろん、彼自身が身銭を切って画家を支援したから等の理由もあるとは思いますが、ここには彼の精神面の成長を重視する姿勢が見られます。

天心は、実は仕方なく貧乏でいたわけではありませんでした。
大地主になる機会や後に価値が大いに上がる美術品を所持する機会等も多分にありましたが、彼はそれらの機会をことごとく退けてきました。
死後の遺産の価値もあまり高いものではなかったという逸話からも、そのような姿勢がうかがえます。

天心は、何故そのような姿勢をとり続けたのでしょうか?
それは、金持ちになって物質的な豊かさを手に入れるよりも、芸術批評から得られる精神世界の豊かさや悦びを重視したからです。

また天心は、帝国大学文学部で『東洋巧藝史』という講義を行った際に「奈良の薬師寺の三尊像を初めて見たときの感動をもう一度味わえるならば喜んでどんなことでも犠牲にする」と語りました。

天心にとって三尊像を見たことで得られた精神世界の充足は二度と味わうことのできないものです。
つまり、そこにはもはや精神面の成長はありません

その精神世界の悦びをもう一度得るために全てを犠牲にする覚悟のある天心は、スキル面の成長以上に精神面の成長を重視していたのではないでしょうか。

岡倉天心の隣人への尽くし方

実篤は隣人へ尽くすことが人生の目的の一つであると説きました。
それでは天心は、周囲の人に対してどのように向き合っていたのでしょうか。

ポイントとしては、次の2点が挙げられます

1.慈愛の心を持ち、見返りを求めない
2.他者へは敬意を持って接する

天心には、歳の6つ離れた由三郎という弟がいました。
病弱な由三郎に対して天心は慈愛の心を持って接し、その優しさを由三郎は幾つになっても忘れることはありませんでした。

このような慈愛の心は何も天心にとって近親の者にのみ向けられるものではありませんでした。
天心は救いを求めている人があれば迷いなく、ほとんど考えもせずに手を差し伸べてしまう人でありました。

知人から金をせびられた際も、騙されていたとしてもその助けには必ず応え、天心の見返りを求めない慈愛の心がうかがえます。

2つ目のポイントに関しては、このようなエピソードがあります。

天心の元には、鑑定を求めて様々な美術品が持ち込まれていて、彼はそれらの美術品を床の間に飾っていました。
しかし、それも一時のものであり、数時間後にはその絵を外して簡素な生花に置き換えてしまっていました。

生け花

ここには、天心の画家と絵そのものに対する敬意が存在していました。
天心は一つの絵が床の間を長く占拠するのは他の絵に失礼であるのみならず、絵を道具として使ってしまっているようで、画家に対しても失礼に当たる、と考えていたのです。

また、画家の指導に於いても天心は敬意を持って行っていました。
天心は絵の批評をする際、その絵の称賛に値する点を盛んに褒め称えることを必ず先に行いました。
その後「が、しかし……」と改善すべき点を列挙することが彼の批評のフォーマットでした。

画家も先に褒められた上に的を射た指摘を与えられるため大いに奮起し改善を目指します。
天心の持つ敬意こそが画家の育成の要だったのかもしれません。

またその指摘を改善した絵を画家が再び見せてきた際にも天心は敬意を持って接していました。

ある日、下村観山が『毘沙門天 弁財天』の屏風絵を描いていた際、弁財天が琵琶を持った絵を見てやはり褒め称えた後、「が、しかし……」と指摘を続けました。
ここで「琵琶の音が聴こえてこない」と指摘をし、観山を大いに困惑させたものでした。

しかし、観山が苦心の末一房の花を描くことで琵琶の音を表現することに成功すると、「ありがとう、これこそが絵だ」と感謝を述べました。

天心は自分の指導によって改善された絵はあくまで自分ではなく画家の努力の賜物であり、そこに対しては敬意を持って接するべきだ、と考えていたのだと分かります。

理想の姿・あるべき姿を常に思い描くことが大切

ここまで天心の自己成長・隣人への尽くし方を見てきましたが、このような行動の根底には何があるのでしょうか。

私は、理想の姿やあるべき姿を常に思い描くことが出来ていたからこそ天心はこのような行動を取ることが出来ていたのだと思います。

岡倉天心という名前は実は本名ではなくペンネームのようなもので、本名は岡倉覚三といいました。
しかし、この「覚三」という名前も親から与えられたものではなく、生誕時は「角蔵」という名であったのを大学を卒業する頃に自ら改名したものです。

天心は19歳で大学を卒業するほどの天才的な人物であり、急速に学問を身につけていきましたが、同時にロマンチシストでもありました。

「角蔵」という名前の由来は、「家の角にある土蔵で産まれたから」というものです。
理想を描くロマンチシストにとって、産まれた場所を指しただけというあまりにも実際に即しすぎた名前はなんとも耐え難く、結局同音異字の「覚三」に改名するに至ったのです。
(ここで音を変えないあたりやはり親への敬意がうかがえます)

改名のエピソードから分かるように、天心は理想を追い求める人物でした。
外食する際は皿を持参してそこに盛らせるなどこだわりが強い点からも、天心が常にあるべき姿を自分の中に持っていたことが分かります。

しかしこの理想というのは、天心自らにのみ向けられたものではありませんでした。

京都出身の近代日本画家の先駆者たる竹内栖鳳は、ある日酒に酔った天心の元を訪れました。
そこで天心に「君は素晴らしい画家だが未だ京都という井戸の中の蛙だ、大海を知るべきだ」と諭され、「この場で東京に出てくることを決断しろ」と迫られました。

竹内はすぐに決断することが出来ず家で考えてから決めようとその場をやり過ごそうとしたところ天心は「機会を逃すぞ」と忠告しましたが、結局竹内は家に戻ることにしました。
その結果竹内は東京に出る機会を逃してしまい、その時の誘いに乗らなかったことを後に後悔しています。

この時天心にとって竹内栖鳳という画家に対してさらなる先、つまり「理想」の姿が思い描けていたのではないでしょうか。
その理想が常に天心の中に存在していたため、非常に早いスピード感での決断をすることが可能で、またそれを竹内にも迫ったのだと考えられます。
しかし竹内の中にはその理想の姿は思い描けていなかったためその場で決断することが出来ず、ついにはその機会を逃してしまったのでしょう。

このように天心は自分だけでなく他者についても常に理想の姿を描くことが出来ている人物だったのだと考えられ、救いの手を差し伸べるのもやはりあるべき姿を他者に対して見出せていたからなのだと思いました。

まとめ

まとめ
岡倉天心の成し遂げた仕事と周囲の人物との関わり方を知ることで、天心がどのような人物であったのかがよく分かりました。

天心は、優れた指導力を持って日本画の近代化と発展に寄与しましたが、その指導力は常に理想の姿を思い描くことにより得られていたのだと私は考えました。
その理想の姿があったからこそ、自己の精神世界の成長を大事にし、隣人へ尽くすことが出来たのでしょう。
隣人に尽くす際には、慈愛の心と敬意を持って接し、決して見返りを求めることはありませんでした。

このような天心の人物像を踏まえて彼の名言を読み解くと、実篤のいうところの人生の目的である「自己成長・隣人へ尽くす」という2点の達成のためには、全ての物事に対してあるべき姿を常に想定して自分の中に持っておくことが必要だと分かります。

自分が成長するために目標となる理想を持つことが大切なのは当たり前のように思えます。しかし、天心の名言から得られる他者に対してもあるべき姿を持つべきだ、という示唆からは非常に重要なことに気付かされます。

それは、他者に対して持つ理想は決して理想の押し付けであってはいけない、ということです。

天心は絵の指導の際、画家の中の可能性を見出して、それをあるべき姿として提示していました。
また、助けを求められた際にはその人物の求めるものを受け止め、そこに救いの手を差し伸べていました。

つまり、他者に対して抱く理想とは、他者の中に存在する理想を見出して自分の中に持つ、ということなのです。
あくまで理想はそれを実現しうる主体自身のためのものなのです。

天心はその能力に長けていたため指導力や慈愛の心を持ち得たのだと思います。

人生の目的を成し遂げるためには自分自身の理想を持ち、また他者の中の理想を見出してそれを自分自身の中に持っておくことが必要なのですね。

参考資料

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