誤用・誤訳

東大を最高学府とする誤用はなぜ生まれた?

東大を最高学府とする誤用はなぜ生まれた?

「最高学府」と聞いて何を思い浮かべますか?

「最高学府って東大のことでしょ?」と思ったあなた、残念ながらそれは間違いとされています。

「最高学府」とは東大のことではなく、大学一般を指すのですから。

私自身東大に所属していますが、「東大なんてすごい、最高学府じゃん」という言葉をかけられてモヤモヤとした気持ちになったことが何度かあります。

大学生にそのように声をかけられると特に「あなたもそうでしょう」と言いかけたことすら幾度か。

もちろん口に出すことはしませんが。

今回は、「最高学府」という言葉の持つ正しい意味と、なぜ誤用が生まれたのか、その歴史的な背景の考察について記事にしてみようと思います。

東大を最高学府とする誤用はなぜ生まれた?

東大を最高学府とする誤用はなぜ生まれた?

そもそも「最高学府」という言葉の辞書的な意味はどういったものなのでしょうか?

そして、その誤用が生まれた歴史的な背景とはどのようなものがあるのでしょうか?

「最高学府」の辞書的な意味は?

「最高学府」の意味を各辞書を参考に確認してみましょう。

大辞林 第三版では、

学問を学ぶところとして最も程度の高いところ。現代では大学をいう。
出典:三省堂大辞林 第三版

コトバンク

と表記され、明確に大学を指し示しています。

また、精選版 日本国語大辞典では、

〘名〙 学問を学ぶところとして最も程度の高い所。大学の意に用いる場合が多い。
※社会百面相(1902)〈内田魯庵〉温泉場日記「天下の最高学府ともあるものが情ないぢゃないか」
出典:精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典

コトバンク

と記載されていて、大学の意味で用いることが主流である、とされています。

大学以外の意味で用いられることがあることを暗に示しているようですが、どういうことでしょうか?

やはり「最高学府=東大」といった認識が蔓延っていることを意識した記述でしょうか?

デジタル大辞泉では、

最も程度の高い学問を学ぶ学校。通例、大学をさす。
[補説]一般に東京大学のみを指していうのは誤用とされる。明治10年(1877)から、明治30年(1897)に京都帝国大学ができるまでは、東京大学(明治19年からは帝国大学)が唯一の大学で、最高学府だった。
出典:小学館デジタル大辞泉

コトバンク

と書いてあり、「最高学府」を東大とする誤用が存在すること、そしてその背景として直接の関係は示していないものの、誤用の原因の解説に繋がりそうな簡単な説明がなされていました。

さらに実用日本語表現辞典では、

最も高等な学問を修める機関の通称。一般的には大学の異名として用いられる。特に東京大学を念頭において用いられている場合もある。なお、大学院が存在するため、大学を最高学府と呼ぶには字義と意味とが乖離しているとする見解もある。

Weblio辞書

とあり、東大を指して使う場合をニュートラルに捉えています。

ここではさらに「最高学府」が大学院を指すという見解についても触れられています。

言葉の本来の意味とは異なる、元々は誤用とされていた使い方が新しいスタンダードとなっていくこと、あるいは言葉の本質的な意味を現代に当てはめて捉え直すことで使い方が意図的にアップデートされる可能性があることが分かります。

そうはいってもやはり、「最高学府」という言葉の最もメジャーな意味としては、「最も程度の高い学問を学ぶ場所、つまり大学」と考えるのが正しいようです。

日本の大学の歴史

「最高学府」が「最も程度の高い学問を学ぶ場所、つまり大学」という意味を持つことは分かりましたが、そもそもその「最高学府」にあたる大学は、歴史的にどのような変遷を辿ってきたのでしょうか?

その変遷を振り返るために、日本の大学の歴史を辿ってみましょう。

さて、日本で一番最初にできた大学は、東京大学です。

西南戦争終結直後である1877年4月12日に創設されました。

4月12日は毎年東大の入学式として固定されていて、東大生にとっては馴染み深い日付です。

実は東京大学の創立は1877年以前からの系譜を辿って考える必要があり、江戸幕府からの歴史を持つ東京開成学校・東京医学校の統合が1877年に行われた、という背景があります。

それでも、近代的な高等教育機関としては日本初の総合大学であり、それまでの日本の教育体制から一歩前進し、グローバルスタンダードな「最高学府」が日本に誕生したその時は、まさに1877年だったのではないでしょうか。

その後の20年間は東大が日本唯一の「最高学府」である時代が続け、様々な教育機関を統合して大きくなり続け、1886年の帝国大学令により「帝国大学」と改称されました。

そしてついて1897年6月18日制定、6月22日公布の明治30年勅令第209号により、日本で2番目の帝国大学である京都帝国大学が設立されました。

ちなみに明治30年勅令第208号により帝国大学(現東京大学)は「東京帝国大学」と改称されており、唯一の帝国大学、そして日本唯一の最高学府としての位置付けを失うことになりました。

その後は東北帝国大学、九州帝国大学、北海道帝国大学と帝国大学の設立が続きました。

1919年には大学令により旧大阪医科大学(府立)が日本初の公立大学として認可され、1920年には同じく大学令により私立大学として初めて早稲田大学が認可されました。

勘違いしがちなのですが、旧大阪医科大学(府立)はその後大阪帝国大学に吸収されるため、現大阪医科大学(私立)とは源流を異にしています。

このように、日本の大学の歴史を辿ってみると、「1877年〜1897年の間は東京大学が唯一の最高学府であったから最高学府を東大であるとする誤用が生まれた」という説にも納得がいくように思えます。

しかし、本当にそれが正しいのでしょうか?

次の節ではいよいよ誤用が生まれた原因の考察に入っていきます。

誤用が生まれた理由の考察

さて、「最高学府とは東京大学のことである」とする誤用が生まれたルーツを辿るために、日本の最高学府の歴史を振り返った上で、誤用が生まれた原因を考察していこうと思います。

日本の最高学府の歴史

前節では東京大学が日本初のグローバルスタンダードな最高学府である、としましたが、「最高学府」という言葉そのものを捉えるためにはこれは適切な視点ではありません。

なぜなら、日本国内からの視点を損なっているからです。

そもそも「東京大学こそが最高学府」という誤用においても、オックスフォード大学、スタンフォード大学、ハーバード大学といった世界の名だたる名門大学の存在を認知した上でのことであり、あくまで「東京大学は日本の最高学府である」という意見に過ぎないのです。

とすると、世界標準の大学の、日本国内での歴史を辿るのではなく、日本の中の最高学府はどのような変遷を辿ったのか、という視点に絞る必要がありそうです。

幕末期の最高学府

東京大学のルーツが江戸時代にまで遡る、ということは既に述べましたが、これはまさに江戸時代から脈々と続く教育基盤の上に近代教育が構築されていったということを示しています。

その意味で、江戸時代の教育機関にも触れる必要があります。

江戸時代は士農工商の身分制度が徹底されており、教育においても武家と庶民とで内容が異なりました。

当時の最高学府は、間接的に東京大学へと連なることになる昌平坂学問所(昌平黌)でした。

昌平坂学問所は1790年に幕府が江戸に設置したものでしたが、一般の藩士に武芸と文の教養を学ばせるために各藩が城下に設置した藩校の模範となる存在であり、まさに「最高学府」そのものでした。

庶民にも一般教養を身に付けさせるための私設の教育機関としての役割は、寺子屋が担っていました。

また、朱子学を正学とした昌平坂学問所と異なり、洋学を主とした洋学校や私塾も幕末から明治維新にかけてその数と勢いを増していきました。

その流れの中で、洋学を中心に扱う教育機関として初めて、江戸幕府は1856年に蕃書調所を設置しました。

ちなみに蕃書調所のルーツは1684年設立の天文方にまで遡ります。

1858年に私設された種痘所も1860年に幕府直轄となり、西洋医学を扱いました。

蕃書調所と種痘所はそれぞれその後東京開成学校・東京医学校へと繋がり、東京大学の源流となります。

最高学府の1790年〜1860年での変遷

当時の最高学府であった昌平坂学問所は、その後江戸幕府の衰退や洋学の発達により徐々に勢いを削がれ、最高学府としての立ち位置を失っていき、明治時代初頭にはついに閉鎖・廃止へと追い込まれてしまいます。

明治維新直後の最高学府

江戸幕府が滅亡し、王政復古の大号令により再び天皇が君主として君臨することとなり、明治政府が誕生しました。

明治天皇が1868年に打ち出した五箇条の御誓文に基づく明治政府の基本方針として、積極的に欧米の近代文化を取り入れることとなりましたが、これこそが日本の教育の近代化を推し進める原動力となりました。

身分による教育内容の差をつけず、一般国民を広く近代的に教育する方針であったことは、江戸時代までの教育体制と大きく異なります。

明治政府は国民一般の教育のため、大学創設計画を東京で進めました。

これは国学を中心に据えた昌平学校(昌平坂学問所から改称)を大学校(本校)とし、開成学校(蕃書調所の後身)と医学校(種痘所の後身)を大学校分局とし、これらを総合して大学校とする方針で、1872年に打ち出されたものでした。

しかしこの3校を統合して大学とする構想の実現はついぞ果たされることはなく、国学派・漢学派・洋学派の紛争による混乱から、大学(昌平学校がルーツ、1870年に大学校から改称)は1870年に閉鎖、1871年に廃止へと追い込まれてしまいました。

このタイミングをもって南校(開成学校の後身)と東校(医学校の後身)が最高学府として位置付けられたものと考えられます。

最高学府の1866年〜1877年での変遷

ちなみに、昌平坂学問所をルーツに持つ大学は文部省の前身でもあり、教育機関であると同時に行政機関としての機能も持ち合わせていました。

1870年にその大学によって「大学規則」と同時に定められた「中小学規則」において、中学校が設置されました。

この中学校が今とは異なる高等教育機関であり、藩校をルーツに持ちつつ洋学を取り入れた、地方の最高学府としての位置付けであったことは、注意をすべき点かもしれません。

「最高学府」としての東京大学

既に述べた通り、東京大学は1877年に東京開成学校(南校の後身)・東京医学校(東校の後身)の統合により誕生しました。

これにより、昌平学校は含まれることはなかったものの、明治新政府が打ち出した大学創設計画はついに果たされ、法理文(東京開成学校より)医(東京医学校より)の四学部の編成をとった総合大学が日本で初めて誕生しました。

この瞬間は言うまでもなく東京大学が日本唯一の「最高学府」でした。

学力水準は決して最高水準と呼べるものではなかったにしろ、日本で最初の近代的な総合大学が設立された記念すべき瞬間であることに変わりはありません。

東京大学はその後1880年に大学院の前身となる学士研究科を、法・理・文の三学部に設置し、1886年の帝国大学令公布に伴い正式に東京大学に大学院が設置されることとなりました。

誤用が生まれた瞬間についての考察

さて、これまで「最高学府」という言葉がそれぞれの時代でどのような教育機関を指していたのか、ということについて歴史的な背景に基づいて振り返ってきました。

幕末期には昌平坂学問所が、明治維新直後には昌平坂学問所の流れを汲む大学校が、その後は南校、東校を経て東京大学が「最高学府」としての位置付けを担っていました。

このように時代に応じて様々な名前の教育機関が最高学府としての役割を果たしていましたが、これまでに挙げた幕末から明治初頭にかけての全ての「最高学府」は東京大学に通じています

つまり、当時の「最高学府」とすれば東京大学のみを指すことになっていたということです。

ここまでで考えると、デジタル大辞泉にあるように、東京大学設立から京都帝国大学設立までの間は東京大学のみが最高学府であった、という説明が誤用の原因であると考えることができます。

しかし、藩校をルーツにもつ中学校も、地方においては「最高学府」としての位置付けがなされていた点も考慮すると、「当時最高学府と呼べるものは東京大学しかなかった」という主張には疑問が残ります。

恐らく地方の一般人からすると「最高学府」として中学校が存在していて、さらに日本全体へ目を向けると東京大学が「最高学府」であるという認識もなされていたのではないでしょうか。

ここで現代に視点を移すと、中学校と東京大学との間のこの構造は、実は現在の日本での状況と全く同じことに気付かされます。

つまり、数多の大学がある中でトップの大学である東京大学を「最高学府」と呼んでしまうという現代での誤用は、明治時代において洋学を最高水準で教育する中学校がありつつも日本唯一の総合大学である東京大学は日本においてトップの教育水準であり、そちらを「最高学府」と呼ぶ、という構造に高い類似性があるということです。

現代において噛み砕くと、「最高学府」という言葉の持つ本来の意味である、「最も高い水準の教育を行う教育機関」の代表として東京大学が想起されてしまう、ということでしょう。

このような現象の身近な例として、「宅急便」が挙げられます。

何か荷物が届いた際、つい「宅急便が届いた」と言ってしまう人は多いのではないでしょうか?

しかし「宅急便」はあくまで商品名であり、ヤマトホールディングス株式会社の登録商標です。

小口の配送サービス自体は「宅配便」と呼ぶのが正式です。

ところが、荷物を運送するサービスという概念に対して第一想起されるのが「宅急便」という言葉であり、ついつい「宅急便」という言葉を使ってしまうのではないでしょうか。

東京大学が「最高学府」という言葉と一対一で対応していると感じてしまうのと同様に、「宅急便」が小口の荷物配送サービスと一対一で対応しているように感じてしまう、ということです。

まとめ

まとめ

今回は、「最高学府」という言葉に東大を対応させてしまう誤用がなぜ生まれたのか、ということについて、大学や「最高学府」と呼ばれる教育機関の歴史を辿って考察してみました。

「最高学府」とは、最も高い水準での教育を行う教育機関のことです。

近代的な総合大学である東京大学が1877年に設立されることで日本で初めて欧米と並ぶ教育水準の教育機関、つまりグローバルスタンダードな「最高学府」が生まれました。

しかし、視点を日本国内、さらには地方へと向けると、「最高学府」とは、東大に連なる幕末からの教育機関、さらには藩校をルーツに持つ各地方の中学校にまで当てはめることのできる広い意味の言葉である、と分かりました。

つまり、東大のみが「最高学府」であった期間の名残で誤用が生まれた、という解釈はやや乱暴で、むしろ「最高学府」の代表として東京大学を第一想起する、という構造は当時から今に至るまで常に存在し続けていたのではないだろうか、と私は考えます。

言葉とは、物事を代理として表す対応関係が、その言語の使用者の間での共通認識として存在して初めて機能するものです。

そういう意味では言葉を本来の意味でのみ使うべきだ、という考えは妥当ではなく、物事と言葉との間の共通認識が時代の流れと共に移ろうのに合わせて、使い方を柔軟に変化させていくべきです。

「最高学府」という言葉についても、大学を指すのか、大学院を指すのか、それとも東京大学を指すのか、という議論をすること自体は全く本質的ではありません。

あくまでそれらは切り口の違いの問題に過ぎないのです。

むしろ私たちが考えるべきことは、「最高学府」という言葉が多義性を持ち始めている、あるいは元来より多義的であったということを認識し、文脈に応じて使い分けて、言葉の持つ曖昧さや奥行きに歴史を感じ取りながら会話をすることなのではないでしょうか。

参考にしたWebサイト

沿革 | 東京大学

沿革略図 | 東京大学

沿革 – 京都大学

京都大学のあゆみ | 京都大学 創立125周年記念事業特設サイト

中野文庫 – 京都帝国大学ニ関スル件

大阪大学の歴史 – 大阪大学

学制百年史:文部科学省

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平日の全てを仕事に、土日の全てを遊びに費やす東大理系院卒ベンチャー社員