歴史・名言

【名言】利他の心を武器に〜稲盛和夫,JAL再生決断の時〜

80歳になった自分が想像できますか?
その時,あなたはどんな心持ちで生活をしているのでしょうか?
「自分はもう歳だから」が口癖になっている人もいれば,逆に「自分はまだまだ現役!」とバリバリ活躍している人もいるかと思います。
もし80歳の自分に,日本を代表する大企業の建て直しを依頼されたら…あなたはどうしますか?

今回ご紹介するのは,日本を代表する経営者・稲盛和夫(1932-)です。
稲盛さんは京セラ・KDDIの創業者にして,日本を代表する代表する企業グループに育て上げた,「生きる伝説」とも言える経営者です。
経営者としての実力もさることながら,その経営哲学を支える人生観が多くの人々の共感を呼び,『生き方』などの著書が日本語版だけで130万部を超える大ヒットを記録するなど,著述家としての顔も持っています。

稲盛さんと言えば,やはり京セラを一代で創業して日本を代表する大企業に成長させたことが有名ですが,今回取り上げるのは78歳で引き受けた「日本航空(JAL)の経営再建」です。
2010年,JALは東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請し倒産。累積負債は1兆5000億円に上り,もはや再建は絶望的と思われた「日本の翼」の復活を任されたのは,全く畑違いの世界を歩んできた稲盛さんでした。
世間的には高齢といえる年齢で,どう見ても無謀なJAL再生を決断した稲盛さんの胸にあったものは何か。

今回は,稲盛さんの経営者人生最後の挑戦を追いたいと思います。

稲盛和夫という男

桜島

稲盛さんは昭和7(1932)年,7人兄弟の次男として鹿児島県に生まれました。
父親は印刷工場を経営しており事業も順調でしたが,当時,日本は戦争へと突き進んでいる最中でした。
太平洋戦争末期の空襲で印刷工場は全焼し,稲盛一家は全員生き延びたものの困窮生活を送ることになります。

稲盛さんは大変な苦労人でした。
幼少期に結核を患ったことをはじめとして,中学受験に二度失敗し,大学受験さらには就職にも失敗しています。
大学教授の伝手でやっとの思いで就職した会社は,従業員に毎月の給料を払うことができずに困窮している有様でした。
5人いた同期は次々に会社を辞めていき,ついに稲盛さんと1人を残すのみになります。

稲盛さんはその同期とともに陸上自衛隊の入隊試験を受けて合格しますが,「大学の先生に紹介してもらった会社を半年で辞めるなんて」とお兄さんが入隊を許さず,ついにたった1人で会社に残ることになります。

それまで自分の人生が上手くいかないことに絶望し,嘆いてばかりいた稲盛さん。
「この場所でやっていくしかない」と心機一転し,目の前の仕事に全力で取り組みました。
その仕事ぶりに周囲の評価も高まって仕事が楽しくなってきたある日のこと。
セラミック真空管の製作に取り組んでいた時,新任の技術部長から心ない一言を突きつけられます。

「君では無理やな。うちには京大卒の技術者もようけおる。
ほかの者にやらせてみるわ」

この一言に技術者としてのプライドを傷つけられた稲盛さんは激怒し,その勢いで辞表を叩きつけ,寮の部屋で仲間を集めて新会社立ち上げのための「血判状」を書き上げました。
21歳から56歳までの7人の仲間が集まり,名を連ねました。

世の中は厳しい。心正しくとも志の通りにいかない時もあろう。
その時は一緒に駅の赤帽をしてでも耐え抜いていこうと思う。
その気持ちだけは持っていてくれ

昭和33(1958)年12月,稲盛さん,26歳の時のこと。京セラ誕生の瞬間でした。

京セラの発展と「アメーバ経営」

アメーバ

京セラを立ち上げた稲盛さんは,それまで以上に仕事に全身全霊を捧げる日々を送ります。
「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助率いる松下グループやソニーといった大口の取引先から,技術的ハードルの高い
製品を低コストで製造することを求められ,それに必死で応え続けます。

そうして京セラの経営が軌道に乗り組織も大きくなってきた頃,稲盛さんはどのようにして社員の心を一つにまとめるかを考え抜いていました。
そして昭和40(1965)年1月,「時間あたり採算制度」が導入されます。

(売上高 – 経費) / 総労働時間 = 時間あたり付加価値

このシンプルな数式に従い,時間あたりの付加価値を追求していくことにしたのです。

会社全体を製造ラインごとにいくつかのグループに分け,それぞれのグループが1つの中小企業であるかのごとく経営を任せ,時間あたり採算制度をもとに独立採算制をとる事で,従業員全員に自身が経営者であるという意識を芽生えさせる制度でした。

そして,トップダウンの指示に従うのではなく現場の判断で柔軟に組織の形を変えていく,まるでアメーバのようなユニークな組織形態が生まれたのです。

これが稲盛式の経営手法として世界的に有名となった「アメーバ経営」の始まりでした。

JAL再生決断の時

道標

その後,京セラの名を世界に轟かせ,さらにはKDDIを誕生させ,日本を代表する経営者になった稲盛さん。
思わぬ話が舞い込んできたのは,2009年。稲盛さんが77歳の時のことです。
当時,民主党が自民党から政権を奪取し,最初の政治課題として浮上したのが,倒産寸前のJALの再生でした。
かねて民主党議員と親交があった稲盛さんに,なんとJAL再生が依頼されたのです。

突然の依頼に戸惑う稲盛さん。
稲盛さんには倒産寸前の企業の再生経験はありましたが,航空業界は全く畑違いの業界です。
しかも,当時のJALはお役所体質が抜けない社風だった上,社内には8つの労働組合が林立し社員は分裂状態にありました。
稲盛さんは「自分は適任ではない」と何度か辞退したそうです。

しかし,正式に倒産が決定する約1週間前,企業再生支援機構と政府から最後の要請があり,稲盛さんはとうとうこれを引き受けることを決意します。

年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり 小夜の中山

新古今和歌集に収められた西行の歌です。
「小夜の中山」とは,鈴鹿・箱根と並んで当時の静岡県にあった山越えの難所でした。

晩年の西行が京都から関東へと悲壮な旅に出る際に詠んだ歌
自らの境遇を重ね合わせ,依頼をしてきた企業再生支援機構の首脳陣の前でこの歌を詠み上げたのです。
3年間と期限を切り,かつ無報酬でのCEO就任でした。

覚悟を決めた稲盛さんは,JALを根本的に改革していきます。
当時のJALには1500もの組織があり,そのうち実際に人が所属して機能しているのはわずか600。
残りは幽霊部署で,パソコンが部屋に放置されているのみという状態でした。

こうした状況を見た稲盛さんは,機体の整備員・パイロットから役員にまで徹底的にコスト意識とお客様第一主義を教え込みます。
幹部向けのリーダー教育研修では,あえて厳しい言葉も用いました。

あなたたちは一度,会社を潰したのです。
本当なら今頃,職業安定所に通っているはずです

初めは反発もありましたが,無報酬で何とかJALを建て直そうと奮闘する78歳の稲盛さんの姿に心を打たれ,JAL社員が変わっていきます。

ここで役立ったのが,アメーバ経営でした。
いかにコストを削減して付加価値を生み出すか。
社員一人ひとりが考え抜くようになります。
社員が主体的にコスト削減に取り組んだ結果,なんと年間800億円もの経費節減に成功します。

「かつてJALは泣きも笑いもしない組織だったが,
アメーバ経営で生きている会社になった」

JALの大西社長の言葉です。

こうして社員全員が奮闘した結果,2011年3月期,連結営業利益は1884億円と過去最高の黒字となりました。
2012年も2049億円と過去最高を2年連続更新することとなりますが,売上高は破綻前の4割減。
社員の努力で経費を半減した結果,勝ち得た成果でした。
さらに2012年9月,JALは東証一部に再上場を果たします。
2010年1月に負債総額2兆3221億円を抱えて倒産し,上場廃止となってから,わずか2年半での奇跡でした。

稲盛さんが決断できた理由

経営破綻したJALの再建を稲盛さんが引き受けた時,その胸には何があったのでしょうか。
稲盛さんは著書『心。』で,その理由を3つ語っています。

JAL再建を引き受けた理由
①日本経済再生のため
②残された社員のため
③国民の利便性のため

①日本経済再生のため

巨大航空会社の破綻は,リーマンショックで打撃を受けていた日本経済に大きな影響を及ぼすことは確実でした。
逆にもし再生に成功すれば,社会全体に大きな自信をもたらすと考えられたのです。

②残された社員たちのため

そもそもリストラを嫌う稲盛さんは,3万2千人のJAL社員の雇用を守りたいと考えたのです。

③国民の利便性のため

もしJALがなくなれば,国内の航空業界はANAの独壇場になります。
公正な競争原理が働かなくなり,国民への航空サービスの質が低下することを稲盛さんは懸念したのでした。

この3つの理由をより大きな視点で見てみると,稲盛さんを支える根本的な行動原理が見えてくるように思います。

それは,稲盛さん自身が著書で何度も言及している「利他の心」です。
京セラを設立する前の一技術者であった頃から,人々の生活をより豊かなものにしたいという動機が,稲盛さんの行動の原動力であり続けてきました。

挫折経験を重ねた前半生を経て,「己の利益ではなく,人々や世の中の利益を追求する」という信念を確立してきたのです。

仏教徒でもある稲盛さんは仏教用語の「利他」という表現を使っていますが,「利他」は「愛」とも言い換えられるのではないでしょうか。
JAL再生を決断した3つの理由を見てもわかるように,その視線はJAL社員や国民といった人々への愛で溢れています。

そしてそれは,前半生での挫折に加えて,長い経営者人生の中での数々の苦い経験の連続の中から生み出されてきたものに違いありません。

もし稲盛さんの人生が何もかも上手くいくことの連続であったら,愛と闘志に溢れる大経営者・稲盛和夫の誕生と,奇跡のJAL再生はなかったのかもしれません。

それでは最後に,苦境の中でも誠実さを貫き続けた稲盛さんの名言をご紹介してこの記事を終えたいと思います。
最後までお読みいただき,ありがとうございました。

稲盛さんの名言

緊迫感を伴った状況の中でしか,創造の神は手を差し伸べないし,
また真摯な態度でものごとに対処しているときでしか,
神は創造の扉を開こうとはしない。
暇と安楽から生まれるものは,単なる思いつきでしかないのである。
『敬天愛人』より

参考書籍

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猫と糖分を愛する経営コンサルタント