作品プロフィール
タイトル:『雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道』
作者:ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851年)
制作年代:1844年
場所:ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
画材:油彩、キャンバス
はじめに
全体的に曖昧で、一見すると何が描いてあるのかよく分からないこちらの絵画。
でも、なんとなく神秘的で、凄みを感じます。
「色のついた詩」
これは、ターナーの作品を研究したウィリアム・コズモ・モンクハウスの言葉です。
まさに詩のように曖昧で捉えどころがなく、かつ示唆的なこの絵には、一体何が描かれていて、何故このような表現がなされているのでしょうか?
そして、この絵には一体どのような謎が隠されているのでしょうか?
作品解説
この絵が描いているのは、霧の中を疾走する黒い蒸気機関車と、機関車のスピード感そのものです。
描かれている車体は、19世紀のイギリスの4大鉄道会社の一つで、当時世界最大の鉄道であったグレート・ウェスタン鉄道の蒸気機関車です。
この絵は19世紀初頭にイギリスで発明された蒸気機関車をモチーフにした、当時としては目新しいテーマの絵だったようです。
それは、風景画家として有名なターナーにとっても同じことでした。
ターナーとロマン主義
ターナーはロマン主義に属する風景画家です。
新古典主義(デッサン派)に対抗する反伝統主義的な思想を元にし、自己の内面の表現を重視する19世紀の思想。18世紀末に流行した中性の歴史物語(ロマンス)に由来する。色彩派とも言う。
ターナーの最も有名な作品の一つが、1805年発表の『難破船』です。
タイトルこそ『難破船』となってはいますが、実はこの絵は難破船を描いたものではありません。
人間を超越し、時には悪意的ですらある自然の、圧倒的な力を描いているのです。
風景画家でありつつもターナーにとっての絵画の主役はもはや山や湖ではなく、嵐、吹雪、雪崩、波浪、洪水など、自然の威力そのものでした。
ターナーは自然風景を描きながらも、常に人間と自然との対立、そして自然の圧倒的な優位性の表現を行っていたのです。
このように自然を「崇高」なものと捉える動きはターナーに限らずロマン主義の画家に一般的でしたが、ターナーの自然へ向けられる眼は異常とも言えるレベルに到達していました。
ターナーがいかに自然の威力を表現したか、ということについて、1842年発表の『吹雪』にまつわる有名なエピソードがあります。
『吹雪』は、荒れ狂う吹雪の中でもがく帆船の様子を描いた作品ですが、やはりここでもターナーは自然の猛威を描写しました。
しかし、自然の力そのものには形があるわけではないので、ターナーは自分自身で吹雪の力強さを体感して、そこで感じたことをそのまま表現することにしました。
ターナーは船員に頼みこみ、なんと自分の身体を船のマストにくくりつけてもらって4時間にも渡って吹雪を記録し続けたのです。
このエピソードの真偽は分かりませんが、それだけターナーは自然の大いなる力を描き出すことにこだわっていたのでしょう。
このように、自然そのものを描くのではなく、自然を見て感じたことを表現する手法は、ロマン主義の特徴の一つでした。
ロマン主義の風景画家の代表であるドイツのフリードリヒ(1774-1840年)は、そのようなロマン主義の表現手法を象徴してこう述べています。
汝の肉体の眼を閉じて、精神の眼で画面を眺めよ
心の眼で見たことを表現しろ、ということですね。
ターナーが心の眼で見た蒸気機関車
ターナーの『雨、蒸気、速度』でも、心の眼で見たものが表現されています。
ここでは、次の2つを紹介します。
- 本来は見えないはずのボイラーの火が見える
- 元々は存在しなかった野ウサギが走っている
①本来は見えないはずのボイラーの火が見える
画面からこちら側へと猛スピードで突進してくる蒸気機関車は、よく見ると正面に何やら赤い火のようなものが見えます。
これは蒸気機関車の構造を考えると、ありえない描写です。
蒸気機関車は、石炭を燃やした熱でボイラーの中の水を蒸発させ、そのエネルギーでピストンを動かすことで走っていますが、ボイラー(正確には火室)は機関室に隣接している必要があるため、正面からは当然見えません。
ちなみに蒸気機関車の仕組みはTOBU Kidsの説明がとても分かりやすいので、もっと詳しく知りたい人にオススメです。
それでは、何故ターナーは見えないはずの火を正面から見えるように描いたのでしょうか?
それはまさにターナーが蒸気機関車を「心の眼」で見たからです。
ターナーは、蒸気機関車の迫力や力強く走行する様子を表現するために、蒸気機関の要である火を強調表現したのだと考えられます。
②元々は存在しなかった野ウサギが走っている
蒸気機関車が走行する前方に、なにやら茶色い模様が見えます。
現在では絵の具が劣化していて分かりづらいですが、これは野ウサギです。
この野ウサギも、ターナーが見たはずの景色には、元々存在しないものでした。
というのも、このウサギは『雨、蒸気、速度』を出品した展覧会のヴァーニシング・デーで描き足されたものなのです。
展覧会会場において、開場前に作品に手直しをする最後の期間として設けられた日のこと。
ウサギは速度を表すシンボルだと考えられるため、蒸気機関車の速度感を表現するために野ウサギを描き足したのでしょう。
ここでもターナーは「心の眼」によって蒸気機関車の速度を見た結果として、ウサギを描き出す、というまさにロマン主義的な表現を行ったのでした。
『雨、蒸気、速度』に隠された謎
さて、ここまで解説してきた上で、ターナーの『雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道』には、1つの謎が残ります。
- 自然の優位性ではなく人工物を中心に据えて描いたのは何故か
ここからは、この謎に迫っていこうと思います。
自然の優位性ではなく人工物を中心に据えて描いたのは何故か
ロマン主義の画家であるターナーは、風景画を描く際に物理的な輪郭そのものではなく、ターナーの内面に存在する自然に対する畏怖の念を描いていました。
その恐怖とも言える感情をモチーフに乗せて描き出し、人間と自然との対比、そして自然の優位性を描くことが常でした。
しかし『雨、蒸気、速度』は、蒸気機関車という人工物がメインのモチーフとなっています。
既に紹介した『難破船』の他にも、1840年発表の『奴隷船』など人工物をモチーフにしているものはターナーの作品群に数多く存在しますが、そのいずれもが自然の威力を表現しています。
しかし、『雨、蒸気、速度』は蒸気機関車が横殴りの雨の中を力強く突進する様子を描いており、むしろ人間が自然に対抗できる力を持っているかのように描かれています。
この絵において、ターナーはロマン主義から脱していたのでしょうか?
ここまで常にターナー=ロマン主義という前提で話を進めてきましたが、実はターナーは単なるロマン主義の画家としてだけではなく、体制順応主義的な生き方も同時に行い、常にこの両極端を揺れ動いていたのでした。
その情報を踏まえた上で今回の『雨、蒸気、速度』を見ると、なるほど確かにロマン主義的な心象風景を描き出しつつも、人間が自然を理性的に支配できる自信に満ち溢れた新古典主義的な表現も見て取れます。
つまり、当時の美術界で対立していた派閥を両方とも取り入れ、柔軟に画面に組み込むことで、あくまで絵としていかに美しいものが出来るか、ということを目指したとも考えられます。
それでも、ターナーがロマン主義を脱したか、という問いに対しては否定を返したいと思います。
ターナーはこの作品では人間の理性や力強さを象徴するかのような工業的産物である蒸気機関車をモチーフにしましたが、蒸気機関車もまたターナーが「心の眼」で見た風景の構成要素の一部に過ぎないのです。
その証拠に、蒸気機関車の輪郭は曖昧で、横殴りの雨や蒸気と混ざり合って新しい美が生み出されるきっかけの一つとして存在し、ターナーの色彩の中に溶け込んでいます。
自然の威力を描くのではなく、自然と人工物とのハーモニーにより生み出される風景を「心の眼」で見て描いたという点で、結局ターナーはロマン主義の風景画家だったのです。
この絵の制作に関しても、ターナーは実際に風雨の中を爆走する汽車の窓からびしょ濡れになりながら顔を出し、蒸気機関車の蒸気と速度、そして雨を感じ取ろうとしていた、という有名なエピソードがあり、やはりロマン主義の絵なのだとうなずけます。
まとめ
ロマン主義の風景画家であるターナーは、自然風景を描きつつも、自然そのものではなく、自然に相対した時に自身の中に生まれた自然に対する感情を本質的なテーマとして描き出していました。
そしてその感情はほとんど、自然の脅威といったものに結びついているのでした。
『雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道』では自然の威力ではなく、自然と人工物の織り成すハーモニーという画面上の美が見て取れますが、これもまた、ターナーが実際に蒸気機関車に乗って感じたことを様々な誇張表現に乗せて表現したという点で、ロマン主義的な作品の1つなのです。
ターナーは単なるロマン主義の表現者ではない、という話をしましたが、それは技法的な部分にも現れています。
ターナーはただのスケッチの道具に過ぎなかった水彩画を一流の表現技法へと確立していきましたが、そこには色彩に対する類まれなる感性が力を発揮していました。
ターナーの色彩に対する感覚はやがてターナーの作品から輪郭を奪い、後の印象派の先駆けとも言える存在となりました。
実際、印象派の巨匠であるクロード・モネ(1840-1926年)も1870年のロンドン滞在中にターナーの作品を研究し、影響を受けています。
今回の参考書籍には2013年の東京都美術館でのターナー展のパンフレットを挙げていますが、実は私は高校生のときにこの展覧会に行きまして、非常に感銘を受けたことを鮮明に覚えています。
今回紹介した『雨、蒸気、速度』は素晴らしい作品で、ターナー自身も手放そうとせずアトリエに残したほどお気に入りだったようですが、私が個人的に好きなターナーの作品はまだまだありますから、ターナーの他作品についてもまた解説記事が増えるかもしれません!
参考書籍
ターナー展 / テート美術館(2013年の東京都美術館の展覧会カタログ)