アート

なるほど名画解説!−ウッチェロ『大洪水』−

作品プロフィール

タイトル:『大洪水』
作者:ウッチェロ
制作年代:1550~1553年
場所:サンタ・マリア・ノヴェッラ教会(フィレンツェ)
技法:油彩

はじめに

大洪水

画面右手前で目を閉じ,静かに祈りを捧げる男性。
その足元の地面には,多くの人々が倒れています。

画面全体の暗いトーンや人々の表情からも,何か一大事が起きたことが分かります。

さて,この絵はどんな場面を表しているのでしょうか?
そして,隠されている謎とは?

解説

この絵が描いているのは「大洪水とノアの方舟(はこぶね)」。
『旧約聖書』の「創世記」第6章~第9章18節に記された「神による世界のリセット」の物語です。

以前ご紹介したように,アダムとイヴにはカインとアベルという息子たちがいました。ところが兄のカインが嫉妬から弟のアベルを殺害してしまい,神によりエデンの東のノドの地に追放されます。

長男と次男を失ったアダム・イヴ夫妻に三男として神から与えられたのがセトです。

このセトの子孫は順調に地上で人数を増やしていきましたが,人類の繁栄とともに,悪人が目立つようにもなってきました。地上の至る所で悪い心と暴力がはびこるようになった様子を見て神は嘆き,このように言います。

「私が創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も,這うものも,空の鳥までも。私は,これらを造ったことを悔いる」

神は地上の生物を滅ぼすことを決めましたが,例外として神に従順で正しい行いをしていると認めたノアとその家族にだけ生き延びることを許します

神は以下のような巨大な方舟(はこぶね)を作るようにノアに命じます。

・全長300アンマ(約135m)
・幅50アンマ(約23m)
・高さ30アンマ(13.5m)

さらに神は,全種類の動物のひとつがいをノアの家族とともに方舟に入れるように命じました。

そして,ノアたちが方舟に乗り込むと大洪水が起き,40日間にわたって地上には雨が降り注ぎ,あらゆる生物は滅びました

さて,改めてこの絵を眺めてみましょう。

大洪水

ウッチェロは遠近法にかなりのこだわりを持っていた画家で,手前の人物ほど大きく,奥の人物ほど小さく描かれるなどこの絵にも遠近法が取り入れられています。

画面左右の赤い物体が方舟ですが,左と右の方舟の底辺が画面奥に向かって伸びており,その先の消失点までの空間に,大洪水を引き起こす激しい嵐の様子が描かれています。

画面最奥には洪水をもたらす黒い雲が力強く立ち昇り,そこから赤い稲妻が伸びて木に直撃しています。

その勢いか強風のためか,木から飛び散った枝や葉が手前に向かって飛んできています。

これが画面に動きを与え,また奥行きを感じさせています。

この名画の「謎」

さて,上記の解説を踏まえた上で,残る謎が3つあります。

①人々は何をしている?
②なぜ方舟は2隻描かれている?
③一番大きく描かれている人物は誰?

謎①人々は何をしている?

気になるのが,画面中央から左半分にかけての人々の動きです。
パッと見ても,一体何をしているのかがほとんど分かりません。

特に気になるのが,画面左端のこの2人。

二人の男

左端のまだ少年風の人物は剣を,右のモヒカン風の髪型に浮き輪のような首飾りという独特なファッションセンスの人物は棍棒を構えて向かい合っています。

一見すると争っているようにも見えますが,実はこの2人,お互いのことなど眼中にありません

よく見てみると,右の人物が棍棒を振り下ろそうとしている先は,左の少年ではなく方舟です。その証拠に,方舟の側面には棍棒の影がはっきりと映り込んでいます。(画像赤枠部分)

そう,大洪水が迫る中でこの2人は方舟の外壁を破壊し,何とかして方舟に乗り込もうとしているのです。

よく見ると左側の少年の左手には紐が握られており,その先には家畜と思しき豚が繋がれています。(画像青枠部分)

神はあらゆる動物に対してもひとつがいを残して滅ぼそうとしているため,この豚は「方舟に乗れなかった動物」を代表して描かれていると言っても良いでしょう。

よく見るとこの2人以外にも,画面左やや奥で棒を振り上げて同様に方舟に乗り込もうとしている男性が見えます。(画像黄色枠部分)

画面左半分

棒と剣を振り上げる2人の間に,方舟の外壁に身を寄せるようにして立っている人物がいます。(画像緑枠部分)

この人物は女性でしょうか。飛んでくる木の枝が体にぶつかっていますが,方舟の外壁を破壊しようとすることもなく,すがるようにピタリと方舟に身体をくっつけています。

そもそも方舟に頼ることなく,自ら船を用意しようとしている人もいます。
画面中央で何と酒樽に乗り込み,両腕を突っ張って辛うじて水に浮かんでいるという猛者です。(画像ピンク枠部分)

その側には,既に身体が水中に没する中,何とか水上に顔を出して水を口から吹き出している溺れかけの人が描かれています。(画像オレンジ枠部分)

このように,画面中央から左半分に描かれている人々は基本的に「何とかして洪水から逃れようとしている」ということが分かります。

聖書本文は淡々とした語り口で大洪水の様子を描写しますが,ノアたちの乗る方舟の外(=滅ぼされる世界の人々や動物)の描写はほぼ無く,大洪水に対する人々の様々な反応がリアルに描かれているのは,作者であるウッチェロの力量の高さを示しています。

謎②なぜ方舟は2隻描かれている?

さて,次の謎は「なぜ方舟は2隻描かれているのか」です。

神がノアに建造を命じたのは1隻の巨大な方舟です。
それがなぜ絵の左右に2隻が存在しているのでしょうか。

大洪水

結論から言えば,「この2隻は同一の船を表している」というのが答えになります。

どういうこと?と思われるかもしれませんが,この絵では同じ絵の中で時間経過が描かれる「異時同図法」が採用されています。

異時同図法
➡︎時間軸的に異なる場面を一つの画面の中に描き込む図法のこと。
基本的に背景を共有する一画面の中に異なる行動を取る同一人物が複数回登場することで,連続した動作を鑑賞者に意識させ,絵画に動きを持たせる。

具体的には,画面中央から左にかけてが大洪水の発生直後の世界を,画面右が大洪水の収束後の世界を描いています。

異時同図法

その証拠に,左の方舟では完全に外壁が閉じていたのに対し,右の方舟では入口が開いてノアが顔を出しています。(画像水色枠部分)

さらに,ノアが差し出した右手の先には,オリーブの枝をくわえた鳩が降り立とうとしています。

この場面には,以下のような背景があるのです。

大洪水が世界を覆い,方舟が漂流すること150日が経った。
方舟はやっとアララト山(トルコ東部。標高5165mの山)の山頂に漂着した。
ノアは地上の様子を知ろうとしてカラスを放ったが,まだ地上は水で満ちていて降りるところがなかったのでカラスはすぐ戻ってきた。

7日後に今度は鳩を放すと,鳩はオリーブの枝をくわえて戻ってきた。
これにより地表が露出し植物が生えている(=水が引いている)ことを確認したノアは,方舟から出て神に感謝を捧げた。

これにより,画面右の方舟は洪水終息後の世界を表していることがはっきり分かります。

つまりこの絵は,画面左から右にかけて時間の経過を表現しているのです。

異時同図法は通常,同一人物が同じ画面中に出てくることで鑑賞者に時の経過を理解させますが,今回のキーとなるのは人物ではなく方舟というわけです。

(画質があまり良くないので分かりにくいですが,よく見ると,画面左のみに白い雨筋が無数に描きこまれています。方舟にしがみつく人の周囲を見ると比較的分かりやすいです)

白い雨筋

洪水終息後の世界では,方舟に乗れなかった人々が地面に倒れています。

中には赤ん坊の姿もあり,ノアとその家族以外の生物は滅ぼされてしまったことがはっきりと描かれています。

倒れる人々

この絵のタイトルは書籍によっては「大洪水と終息」となっており,このタイトルを知っていて絵を眺めると最初から謎が解けるかもしれません。

謎③一番大きく描かれている人物は誰?

さて,最後の謎として残るのはこの絵の中でノアを差し置いて最も目立つように大きく描かれている画面右手前の人物です。(画像水色枠部分)
この人はいったい何者なのでしょうか?

エウゲニウス4世

この人物は,ローマ教皇・エウゲニウス4世

エウゲニウス4世
エウゲニウス4世

1439年にフィレンツェで開かれたフィレンツェ公会議(キリスト教の宗教会議)で,数百年にわたって東西に分裂していたキリスト教会の歩み寄りを図りました。

結果的には東西教会の統一が果たされることはありませんでしたが,エウゲニウス4世が東西の融和に尽力したことは事実です。

このフィレンツェ公会議の開かれる約20年前まで,西側のローマ教会では同時期に2~3人の教皇が並立するなど混乱が続き,影響力を低下させていました。

そのため,画面左の方舟を西側の「嵐に見舞われるローマ教会」,右の方舟を東側の「ギリシャ正教会」とする見方もあります。

また,この絵のノアが東側の教会の代表の象徴であるとするという説もあります。

もしそうだとすれば,エウゲニウス4世とノアが向かい合うようにして描かれていることにも納得がいきます。

大洪水

エウゲニウス4世は静かに祈りを捧げ,ノアは希望の象徴である鳩を迎え入れているので,この絵は将来的な東西教会の統一への希望を描いたものという解釈ができるのです。

また,この絵はフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の回廊の壁画として描かれました。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会(フィレンツェ)
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会(フィレンツェ)

この教会はまさにフィレンツェ公会議が開かれた場所であり,かつこの絵が描かれたのはエウゲニウス4世が亡くなった1447年頃とされています。

この絵は,エウゲニウス4世を偲び,功績を称える意味で描かれた記念碑的作品と考えるとこのような主人公のような描かれ方をしているのも得心がいきます。

まとめ

今回はウッチェロの名画『大洪水』を取り上げました。
その結果,以下のようなことが分かりました。

・『大洪水』は,神が起こした大洪水とノアの方舟の物語を描いた名画
何とか大洪水から生き残ろうとする人々・動物の姿が描かれている
画面の左から右にかけて時間の経過を表現する「異時同図法」が採られている
・最も手前に大きく描かれている人物は,東西教会の統一に尽力したローマ教皇エウゲニウス4世
・この絵はエウゲニウス4世の功績を称える意図を持って描かれたと考えられる

美術作品には,素人だからこそ様々な視点で楽しめるという魅力があります。

今後も様々な作品を取り上げて鑑賞,考察していきたいと思います。
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最後までお読みいただきありがとうございました!!

参考書籍

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