民俗学

結婚式は無駄なのか?結婚式の歴史と現代における向き合い方

結婚式は無駄なのか?結婚式の歴史と現代における向き合い方

こんにちは、サメの助です。

先日、親族として結婚式に参加する機会があったのですが、私にとってはこれが初めての結婚式への参加でした。

実は私は元々結婚式は無駄なもの、開く必要のないもの、と考えていましたが、実際に参加したことがないのにこういった意見を主張するのもおかしいと思い、ある程度中立な立場を取っていました。

今回、実際に結婚式に参加することで結婚式とは必要なものなのか、それとも無駄なものなのか、そして結婚式の意味とはなんなのか、ということについて考えをまとめる機会を作ることにしました。

前回の葬式の記事に引き続き、この記事は冠婚葬祭についてその歴史から考える記事となっています。

ところどころこちらの記事に関連した内容が今回の記事には登場しますので、予習の意味で一度この記事をご覧になることをおすすめします。

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結婚式は無駄なのか?結婚式の歴史と現代における向き合い方

結婚式は無駄なのか?結婚式の歴史と現代における向き合い方

結婚式が無駄なのかどうかを判断するためには、結婚式がどういった意味合いをもつのか、ということを考える必要があります。

そのためにまずは日本の結婚式の歴史を振り返ってみましょう。

明治時代の結婚式は「小笠原流礼法」で、宗教は関係なかった

古代の妻問婚などは一旦置いておき、明治時代以降の日本の結婚式の歴史を辿っていきましょう。

明治時代の結婚式のスタンダードは、「小笠原流礼法」をベースにしたものでした。

小笠原流礼法は将軍・足利義満に仕えた小笠原長秀にルーツを持ち、元々は鎌倉時代の弓道と馬術の礼法でしたが、室町時代からは小笠原流礼法が冠婚葬祭や日常生活のマナー全般の規範となっていきました。

ちなみに小笠原長秀は、足利義満のいわばマナー講師のような立ち位置だったようです。

明治時代の結婚式では小笠原流を簡略化し、次のような流れで結婚式を執り行いました。

  1. 婿方の使者が嫁方を訪れ、花嫁とその親族と盃を交わす
  2. 花嫁を輿(明治時代以降は人力車)に乗せ、その周りを親族が取り囲んで花嫁行列を組み、嫁方から婿方へと向かう
  3. 花嫁花婿の三三九度の盃に続き、親族とも盃を交わす

三三九度の盃とは?

別名で三献の儀とも呼ばれる儀式で、花嫁と花婿が同じ盃を交互に飲み交わし、3度に分けながら飲むという所作を三度繰り返すことから三三九度の盃と呼ばれています。
神社によって繰り返しの回数や花嫁と花婿のどちらが先に飲むのかなどの違いはありますが、小・中・大の大きさの盃を過去・現在・未来に見立てて三と九いう縁起の良い数字を用いて飲み干すということはいずれでも共通です。

葬式の野辺送りと同様、当時の結婚式でも②の花嫁行列が最も華やかでした。

またこれも葬式と同様、当時の結婚式は宗教の介在しないものでした。

現在では三三九度の盃は神社で行うことがほとんどですが、1900年の皇太子嘉仁(大正天皇)と九条節子(貞明皇后)の婚礼において、神社で日本古来の神々に誓いを立てる神前結婚式が初めて行われるまでは、結婚式は完全なる民間行事でした。

葬式を寺に牛耳られてしまっていた状況下で、神前結婚式は神道界にとっては大きなビジネスチャンスだったのでしょう。

日比谷大神宮(現東京大神宮)、乃木神社、出雲大社系の神社、天満宮、平安神宮など、有名な神社が次々と神前結婚式へと名乗りを挙げました。

その結果、昭和初期には神社で結婚式をして料理屋で宴会をする、というパターンが一部の上流階級の間で流行していったようです。

結婚式のスタイルの変化

花嫁と花婿の自宅で行う民間行事であった結婚式に神道界が参戦し、徐々に神前結婚式がメジャーとなっていきます。

それに伴い小笠原流の自宅結婚式は1950年代以降は激減し、神前結婚式と披露宴をセットにした二段階方式が台頭してきました。

1964年の東京オリンピックに合わせたホテル建設ラッシュも後押しし、1960年代後半には全挙式のうち神前結婚式は80%以上を占めることとなったのです。

ここでホテルと神前結婚式との関連に疑問を感じた方も多いのではないでしょうか。

ホテルというと洋風のイメージがあるため、どうも神前結婚式と結びつかない、と。

その違和感はごもっともで、そもそもが民間行事であった結婚式にファッション的に取り込んだ神道と同じように、二段階方式の結婚式は、神道のスタイルの結婚式に無理やり洋風の披露宴をセットにした、当時にとっても新しいビジネスでした。

そのような背景から、結婚式は新郎新婦の儀式に参加するというよりは、新郎新婦が参加者を楽しませるためのショーとしての意味合いが強くなっていきました。

同じく民間行事に宗教が途中から介入してきた葬式は形式張った儀式としての立ち位置を取り続けたのと比較して、むしろ宗教や西洋のスタイルを取り込んだ結果として儀式的な要素が失われていったという点が結婚式はユニークです。

海外の文化をローカライズして独自に発展させることが得意な日本らしくて、とても面白いですね。

葬式と結婚式の違いとして、準備期間の長さや開催主の式に対する思い入れの違いも挙げられます。

結婚式には長い準備期間の中で新郎新婦の結婚への思い入れ、そしてどのように参列者を楽しませるのか、といったことが練り込まれていきます。

そのような開催主の主体性が生じやすい結婚式だからこそ、神前結婚式の覇権は長くは続きませんでした。

1970-1980年代に洋風の披露宴が派手化していくと、神前結婚式の人気は急速に下落し、キリスト教式結婚式が人気を獲得していきました。

1995-1996年には神式とキリスト教式の比率は逆転し、2004年のデータではキリスト教式での挙式が全体の74.2%を占めるまでになりました。

2018年のデータではキリスト教式は55.4%(*1)と若干人気は低下気味ですが、それでもキリスト教式が最も人気な挙式スタイルであることに変わりはありません。

結婚式の意義とは?

これまで日本の結婚式の歴史を見てきましたが、家同士の民間行事であった結婚式が神式、キリスト教式、そしてエンターテインメントへと変遷を辿ってきたことが分かりました。

さて、それでは結婚式の本質的な意義はどこにあるのでしょうか?

家同士が関係を持つようになるための儀式という意味合いはもはや結婚式に期待されていないように思います。

また、花嫁が花婿の家に入る際に必要だった、「花嫁を地域で受け入れる」という過程も、地域の繋がりが薄まり、また夫婦が新しい家に移り住むことがメジャーになった現代では必要性がないようです。

実際、花嫁が花婿の母と共に近隣の家々へ手土産を持って挨拶に巡る「村廻り」といった風習は、もはや現代で遭遇することはないように思います。

こういった結婚に関する事項の変化は、現代人が属するコミュニティの変化に起因するところも大きいのではないでしょうか。

インターネットや交通機関の進歩により、人々の地域コミュニティに対する帰属意識は徐々に薄れてゆきました。

すると結婚式の目的は家同士の契りや地域社会から承認を得るためではなく、新郎新婦がこれまでに関わってきた人々に対する感謝の気持ちを示すためのものになってきたように思います。

つまり、「結婚式」と一言で言っても、実はその本質は結婚式そのものではなく披露宴の側にシフトしてきている可能性が高いのです。

儀式的な結婚式よりも披露宴の方が時間が長く、またそこに創意工夫をして参列者を楽しませることに重きを置いていることからも、披露宴が結婚式のメインになっていると考えることは妥当でしょう。

そう考えると、結婚式の意義は、新郎新婦が参列者への感謝を、そして参列者が新郎新婦への祝福を一度にまとめて行える、という部分にあるのではないでしょうか。

特に新郎新婦の側からすると、それぞれの関係者との食事会などを一々セッティングしていたら大変な時間がかかってしまうので、結婚式・披露宴に招待する、というふうにしてしまうのが最も効率が良いのです。

まとめ

まとめ

今回は、日本の結婚式の歴史的変遷と、現代における結婚式の意義について書いてきました。

現代の結婚式は新郎新婦が参列者を楽しませるためのショーのようなものになっていますが、その本質は披露宴にあると考えられます。

結婚式に対する儀式的な意義が薄れてきた現代において、新郎新婦が属するコミュニティの人々に対しておもてなしを通して感謝を一度に伝えることができる披露宴は、とても合理的であるのかもしれません。

また、結婚式は参列者の側も祝福を伝えることの出来る場でもあります。

ただ、新郎新婦の側と比べて参列者の側には義務感のようなものが生まれやすい、という問題がありますが、これはあえて指摘するまでもないでしょう。

その最たるものが御祝儀に関するあれやこれやです。

御祝儀は本来はお祝いの気持ちを伝えるための手段の一つですが、難しいことを考えずに、形式に則って用意すればお祝いを伝えられる便利なものです。

しかし、どうもこの御祝儀は義務的な出費と捉えられがちのように感じます。

というのも、参列者からすると御祝儀は自発的に用意するものではなく、また新郎新婦に直接渡すこともないからです。

お祝いとは本来相手を祝福し、自分も幸せな気持ちになれるもののはずなのに、払わなければいけない額が決まっていて、しかもそのお祝いを渡す相手がその場では見えない、というのはお祝いの形としてどうも妙な気がします。

これは結婚式・披露宴に何百万もかける新郎新婦を少しでも援助できるように、という意味合いもあるとは思いますが、いずれにしろ構造的に発生した金銭の支払いであり、参列者の主体的なお祝いという意味合いは随分薄いように思います。

また、新郎新婦側としても、あえて大きな金額を投資して結婚式・披露宴を開くことが、果たして最も参列者に対する感謝を伝えられるのか、という点はよく考えるべきだと思います。

豪華な食事や引出物、メッセージを伝えるなどでひとまとめにおもてなしは出来ますが、一対一での気持ちのやりとりに結婚式は向いていません。

私は結婚式・披露宴そのものは意義深いものだと思っていますが、その形式や構造には再考の余地があるように思います。

こういった問題点を解決できる形式がすぐに思いつかないので、限られた人数を招待する食事会を複数回開催する、というのが現時点では最も良い形式のように思ってしまいます。

ただ、この食事会は一方的に新郎新婦側がもてなすものであり、もてなされる側のお祝いはまたの機会に、となるとかなりの時間を要してしまうのも問題ですね。

ううむ、何が良いのか、いまいち結論が出ません。

とにかく、結婚式を開く側も参加する側も、お互いへの感謝・祝福の気持ちを持ち、それがどのような形で現れているのか、ということを意識することが大切だと思います。

形式的な祝福であれど、本心からの祝福をその形式にこめることが出来れば、さして問題はないのでしょう。

むしろ、少しでも御祝儀やらのお祝いをすることに不満や違和感を覚えるのであれば、そんなものはやめてしまい、個人的なお祝いをする、もしくはもはやお祝いをしない、という風にしてしまうのが良いのかもしれません。

参考書籍

ソース

*1ゼクシィ

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平日の全てを仕事に、土日の全てを遊びに費やす東大理系院卒ベンチャー社員