作品プロフィール
作者:ベッリーニ
制作年代:1515年頃
場所:ブザンソン美術館(フランス)
技法:油彩
はじめに
画面いっぱいに横たわる,裸体の老人。
このままでは風邪を引いてしまいそうな老人の身体に赤い布をかけようとする中年男性3人の行動に特に違和感はありませんが,中央の男性が手をかけているのは布ではなく,左右の男性の身体です。
さて,この絵はどんな場面を表しているのでしょうか?
そして,隠されている謎とは?
解説
この絵が描いているのは「ノアの泥酔」。
『旧約聖書』の「創世記」第9章に記された「大洪水後のノアの物語」です。
以前ご紹介したように,悪人がはびこるようになった世界をリセットするために神が引き起こした大洪水によって,ノアの一族以外の人類と生物は滅んでしまいました。
大洪水が終わった後の世界で,ノアはいったいどのように暮らしたのか?
それを知ることができる唯一の記述が,今回取り上げる「ノアの泥酔」のエピソードです。
さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。
やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」
「呪われよ」とは何とも物騒なワードが出てきました。
ノアがどうして誰を呪ったのかは後述することにして,ここで改めてこの絵を眺めてみましょう。
まずノアが寝ている場所は,聖書の記述通り,ぶどう畑で間違いありません。
その証拠に,背景には特徴的な形のぶどうの葉が描き込まれていますし,ノアの枕元にはぶどうが一房落ちています。
また,画面手前にはぶどう酒が残った杯が転がっており,ノアがここで一杯楽しんでいる途中で寝てしまったことが示されています。
それを見つけたのがノアの息子3兄弟の一番下の弟,ハム(画面中央)です。
ハムはお父さんが素っ裸で寝ている姿を見つけて,そっと布をかけてあげるどころか,わざわざお兄さん2人に知らせに行きます。
「おーい来てみろ兄貴たち,親父が酔っ払って裸で寝ちまってるよ!」
というところでしょうか。
左端のそれなりに歳をとった人物が長男・セムです。
右端の人物が次男・ヤペテで,セムと協力してノアの身体を布で覆おうとしています。
ところがそれを邪魔しようとしているのが問題児・ハムです。
兄2人が布に手をかけて父の身体に被せようとしているところ,1人だけ布に手をかけていないどころか,兄2人の動きを制するようにセムの肩とヤペテの腕を抑えています。
「おいおいもう布かけちゃうのかよ,面白いからこのまま放っとこうぜ!」
とでも言いたげな,悪意ある表情です。
私の通っていた小学校にもこういう顔で笑ういじめっ子がいたのを思い出します(笑)
この行動が悪意に基づくことは,ハムの視線からも明らかです。
ここで3人の兄弟それぞれの視線を可視化してみましょう。
長男・セムの視線(青)は次男・ヤペテの顔の辺りに向けられています。
次男・ヤペテの視線(緑)はノアの足先に向けられています。
2人とも聖書の記述通り,「顔をそむけて父の裸を見なかった」わけです。
対照的なのが三男・ハムの視線です。ヤペテが顔をそむけながら覆ったノアの下半身にダイレクトに向けられています。
ここは画家・ベッリーニのオリジナル表現です。
聖書には
父の恥ずかしい姿を見つけて人に言いふらしにいく親不孝者のハム
vs
毛布をかけて父の尊厳を守る親孝行なセムとヤペテ
という対比が表現されているだけで,兄2人が布をかける時にハムがどうしていたかは記述されていません。
それを,あろうことかわざわざ(しかも楽しそうに)邪魔するハムの姿を描くことで,ハムの「嫌なヤツ感」がより強調されているというわけです。
この物語は様々な画家が絵にしていますが,『アダムの創造』の記事で取り上げた,ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画にも描かれています。
この名画の「謎」
さて,上記の解説を踏まえた上で,残る謎が2つあります。
謎①ノアはなぜ,ハム本人ではなくハムの息子・カナンを呪ったのか?
謎②呪いってそんな簡単にかけられるものなのか?
謎①ノアはなぜ,ハム本人ではなくハムの息子・カナンを呪ったのか?
さて,息子ハムに軽んじられたノアの怒りは理解できますが,気になるのは「なぜハム本人を呪わないのか?」ということです。
ここでノアの家系図を整理してみると,ノアが呪った「カナン」はハムの息子,つまりノアから見ると孫であることが分かります。
息子の不祥事の尻拭いをなぜ孫がしなければならないのか。
はっきりとした答えは分かりませんが,考えられることはあります。
説①ノアにとって実の息子であるハムは近親者で,呪いをかけられなかったから
➡︎これは,1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスが書いた『ユダヤ古代誌』に記載がある理由です。
ノアは本当は不祥事を起こしたハム本人を呪いたかったものの,実の息子であるため呪いをかけることができなかったとするものです。
(しかし,孫だって血縁関係にあるという意味では変わらないのでは?という意味で疑問は残ります)
説②呪いが子孫代々にわたり受け継がれるものであることを示すため
➡︎こちらは説①で触れた『ユダヤ古代誌』にて,はっきりとは書かれていないもののほのめかされている説です。この本では「本来はハムの子孫全員に向けられた呪いだったが,カナン以外の子孫は呪いから逃れた」という解釈がされています。
ハム本人に呪いをかけても,それは一時的な罰として終わってしまいます。一方,ハムの家系自体を呪えばその呪いが子々孫々まで受け継がれることになります。
こちらの説の方が,ノアの怒りの深さが感じられて恐ろしいですね。
「しもべのしもべ」とはつまり奴隷の奴隷になるということですから,孫にこんな呪いをかけるとは相当な怒りです。
謎②呪いってそんな簡単にかけられるものなのか?
次に気になるのは,「呪いってそんな簡単に,普通の人間がかけられるものなのか?」ということです。
これについてもはっきりとした答えが聖書中のどこかに書いてあるわけではありません。
しかし,ノアが「ただの人間」ではないことに注意しなければなりません。
大洪水の前と後とで,世界は全く違うものに変わりました。
神は大洪水を起こす前に,
「人間の寿命は120年にしよう」
と決めます。しかしそれはすぐ適用されたわけではありません。
ノアが泥酔したこの場面でのノアの年齢はなんと600歳(!)。
さらにノアは350年も生きて,950歳で亡くなります。
そもそもアダムとイヴがエデンの園を追放されるまで,人間には寿命がなかったというのが聖書の世界観です。楽園を追放されたことで命にタイムリミットができた人類ですが,それでもアダムは930歳まで生きたのです。
その後の主な登場人物も,ノアまでが信じられないくらい長寿ですが,ノアの長男・セムが600歳で亡くなるのをはじめとして,大洪水以後の世界の人間たちは世代を重ねるごとに寿命が縮んでいきます。
こうして見ると,ノアはその息子以下の世代から見ると「超人」そのものです。
神ではないにせよ,呪いをかけるといった超人的な力を持った「大洪水前の世代」の人物であったということなのかもしれませんね。
まとめ
今回はベッリーニの名画『ノアの泥酔』を取り上げました。
その結果,以下のようなことが分かりました。
・『ノアの泥酔』は,神が起こした大洪水の後のノアの物語を描いた名画
・父親の尊厳を尊重する息子セム・ヤペテと,嘲笑うハムの姿が対照的に描かれている
・聖書にはない,兄たちの行動を邪魔するハムの様子が描かれている
・ノアはハムの行動に怒り,ハムの息子のカナンを呪った
美術作品には,素人だからこそ様々な視点で楽しめるという魅力があります。
今後も様々な作品を取り上げて鑑賞,考察していきたいと思います。
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最後までお読みいただきありがとうございました!!
参考書籍