はじめに
「あなたが知っている日本史上の最も有名な人物は誰ですか?」
そう問われたら,この人の名前を挙げる人は多いのではないでしょうか。
西郷隆盛(1827-1877)。
元は薩摩藩(現在の鹿児島県)の武士で役人でした。
強烈な行動力で幕末から明治という時代のうねりを作り出し,最後は故郷・薩摩の武士たちに推される形で
西南戦争の中心人物となり,自らが生み出した新政府軍に敗れる形でこの世を去りました。
その波乱万丈過ぎる生涯をこの記事だけで語ることは到底できません。
普通の人には人生で一度あるかないかの大きな「決断」を下し続けた西郷隆盛。
彼の様々な決断の中でも,この記事では特に大きな決断である「江戸無血開城」を取り上げます。
背景
時は幕末。
約300年にわたって維持されてきた統治機構は,押し寄せる西欧列強の波の中で明らかに機能不全に陥っていました。
このままでは,日本は独立国として西欧諸国と対等に向き合っていくことはできず,最悪の場合は植民地化されてしまう。
やがて,西郷は江戸幕府打倒と,新政府樹立を決意することになります。
その後,薩長同盟の成立(1866年)や大政奉還(1867年)などの歴史上の大事件を次々と経て,時は1868年1月。
徳川家本体による最後の抵抗,鳥羽・伏見の戦いが起こります。
将軍・徳川慶喜が直々に大阪城入りし,京都への進軍を開始します。
徳川方の兵力はおよそ1万人。薩摩・長州連合軍はその半数の5000人弱でしたが,まさに必死の働きで戦いを有利に進め,
かつ天皇から慶喜を長敵として征伐するよう詔を引き出して「錦の御旗」を掲げて戦うことで幕府軍の戦意を喪失させます。
もともと天皇への尊敬の念が強かった慶喜は朝敵とされたことで心理的に大ダメージを負い,戦場に兵士を置き去りにして
密かに大阪城を脱出。軍艦開陽丸に乗り込み,海路で江戸に逃げ戻ります。
慶喜が江戸へ逃げた1868年1月7日の午後,朝廷は慶喜の追討令を発します。
これを根拠として,政府軍は2月から江戸に向かう軍隊「東征軍」を組織して進撃を開始します。
一方,江戸に逃げ帰った慶喜は,朝廷および新政府に対して反省の意を示すことで,寛大な処置を引き出そうと考えます。
江戸城を出た慶喜は,徳川家の菩提寺である上野の寛永寺の一室で自主的な謹慎生活を始めました。
また,幕府側の人物でありながらも西郷や木戸孝允といった薩摩・長州藩にも人脈のある勝海舟に対して新政府側との交渉を依頼します。
勝海舟という男
勝海舟の交渉は,最初から難航が決まったものでした。
交渉相手となる西郷はこの時,新政府軍の中でも徳川家に対して最も厳しい態度を示し,慶喜の切腹まで主張していたのです。
2月28日,駿府(静岡県)にて軍を休ませていた西郷のもとに勝海舟から手紙が届きました。
慶喜が恭順の意を示しているのに,新政府が追討の手を緩めないのはいかがなものか。
江戸城を攻撃しようとしているようだが,徳川家の軍艦を大阪湾や東海道沿いの要所に配置すれば,幕府軍の側から江戸に迫る新政府軍を攻撃することもできるのである。
それをしないことこそ,朝廷に対する恭順の証。どうか新政府軍を箱根の西にとどめ置いてほしい
この手紙を読んだ西郷は激怒します。
恭順と言いながら,官軍に注文をつけるとは何事であろうか。
海舟はもちろん,慶喜を討ち取らずにいられようか。
箱根での滞陣など,もってのほかである。
さっそく,明日より出陣しようではないか
3月6日,江戸城総攻撃の予定日が3月15日と決まります。
徳川方には軍略に優れる人物もいる。
(中略)これから始まる海舟たちとの戦いは楽しみである
この時の西郷の言葉です。
江戸に留まっていた海舟の代理として,山岡鉄舟が幕府側代表として西郷のもとへ交渉にやってきます。
西郷は山岡に対し,慶喜の命を助ける場合に徳川方が応じるべき条件を7箇条にまとめて待ち構えていました。
すぐに江戸に戻った山岡を追うようにして,西郷率いる新政府軍も江戸に向かいます。
山岡が江戸に到着した翌日の3月13日,西郷たちは高輪の薩摩藩邸に入りました。
江戸城総攻撃予定日の,2日前のことです。
勝海舟との会談〜西郷,決断のとき〜
海舟は徳川家の嘆願書を携えていました。その内容は以下のようなものでした。
・慶喜は実家である水戸藩へのお預けにしてほしい
・江戸城は明け渡すが,兵器や軍艦はすぐに取り上げないでほしい。寛大な処分が確認されたのち,徳川家が必要な分を除いて引き渡しに同意する
西郷は新政府軍代表として,幕府軍の完全武装解除を求めていました。
総攻撃の前日に,勝海舟は新政府軍の要求を真っ向から拒否し,大幅な譲歩を求めたのです。
この時,西郷は大いに迷ったものと考えられます。
新政府側から見た時,幕府側の提示してきた条件ははっきり言って「論外」でした。
江戸幕府の権力の象徴である徳川家が存続し,かついざとなれば武力蜂起する可能性も捨てきれない。
新政府として到底受け入れられる条件ではなく,要求を突っぱねて会談を終了させた後,すぐにも軍隊を動かしてもおかしくない状況でした。
しかし,西郷は決断します。
翌日に控えた江戸総攻撃を中止することとしたのです。
交渉の常識からすれば論外であるこの提案を,即突っぱねることなく受け入れた西郷隆盛。
彼は,なぜこの決断を下すことができたのでしょうか。
私は,大きく以下の3つの理由が考えられると思っています。
西郷が決断できた理由
①西郷が大局的な視点に立ち,会談のみの成否に拘らなかった
②勝海舟への個人的友情があった
③西郷が無私の人であった
それぞれについて見ていきましょう。
①西郷が大局的な視点に立ち,会談のみの成否に拘らなかった
西郷はこの会談での勝ち負けではなく,新政府が江戸に入って政治を行うところまでを見通していました。
仮に海舟の提案を突っぱねて徳川方の武装解除を強行すれば,徳川方の反発はものすごいものとなったでしょう。
鳥羽・伏見の戦いのような,幕府軍 vs 新政府軍という構図の内戦が,江戸の街を舞台に繰り広げられるのは必至でした。
それはまだまだ財政的にも経済的にも体力のなかった新政府軍にとっては厳しい結果を招きます。
また,幕府軍はいざ決戦となれば江戸の街に火を放つ焦土作戦を展開することも考えていました。
仮に勝利したところで江戸の街を復興させ,徳川に同情的な諸大名を従わせるのは至難の業だったと考えられます。
②勝海舟への個人的な友情があった
また,西郷には海舟への個人的な友情の念がありました。この会談の6年前,海舟と西郷は出会っていました。
当時軍艦奉行だった海舟に西郷は,幕府の国防政策についての考えを尋ねていたのです。
幕府の役人として幕府の交渉力の無さを痛感していた海舟は有力な藩による連合こそ有効であるとの自説を披露し,
西郷を感服させていました。
勝海舟は,どれほど知略のある人物か分からない
この時,西郷が大久保利通にあてた手紙です。
それから6年の時を経て,西郷と海舟の二人は再び顔を合わせました。
海舟の一見無茶に見える提案も,当然ながら海舟個人のものではありませんでした。
徳川方を全否定し強制的な武装解除が実施されることになれば,徳川方が武装蜂起するであろうことは火を見るより明らかだったのです。
立場は違えど,これからの日本のことを考えて最善の選択をしようと考える二人。
賊軍とされた徳川方の,苦しい立場に置かれた海舟に同情した西郷が,海舟を助ける気持ちで決断を下した面があったのではないかと考えられます。
③西郷が無私の人だった
最後に,西郷が徹底した無私の人であったことが挙げられます。
海舟が示した案を呑むということは,新政府軍として大幅な譲歩をすることに他なりません。
天皇による慶喜追討の命を受けて江戸まで進軍した新政府軍にしてみれば,西郷が裏切り者とされかねず,新政府の中での西郷の立場の悪化は確実でした。
しかし,西郷は地位や名誉にこだわる人ではありませんでした。
新政府の中で主導的なポジションを誰が握るかで争いが繰り広げられる中,常に距離を置いていた西郷だからこそこの決断ができたと言えるでしょう。
もしこの会談が西郷と海舟という組み合わせで行われていなければ,交渉は決裂し,江戸は火の海となっていたのかもしれません。
その後
こうして慶応4(1868)年4月11日,新政府軍は全く戦闘を伴うことなく江戸城に入城し,江戸無血開城は実現されました。
江戸の街は戦火から救われたのでした。
しかし,徳川方には最終的に完全な武装解除が要求され,これに反発した一部の幕臣が脱走,各地で戦闘を展開します。
上野の彰義隊との戦いや戊辰戦争での会津若松の戦いなど数々の悲劇を経て,新政府は全国に支配を広げていきます。
そして,最後に新政府と戦火を散らしたのが,政府での職を辞して鹿児島に帰っていた西郷隆盛その人でした。
西郷が西南戦争で敗れて12年後の明治22(1889)年,西郷は大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって「逆賊」の汚名を解かれました。
西南戦争後,勝海舟ら西郷を慕う人々が西郷の名誉回復のため奔走した結果でもありました。
さらに9年後の明治31(1898)年,東京・上野公園に西郷隆盛の銅像が立てられます。
それから,120年以上にわたり,西郷像は東京の象徴として多くの人々に親しまれています。
では最後に,勝海舟と西郷隆盛の友情が感じられるエピソードをご紹介して今回は終わりといたしましょう。
東京・大田区。
海舟が長く過ごした土地です。
海舟夫妻のお墓の横に,「留魂碑」という石碑が寄り添うように立てられています。
この碑の表には,西郷隆盛の漢詩が刻まれています。
そして,裏には海舟の自筆で以下のような文言(意訳)が記されています。
慶応戊辰の春,君は大軍を率いて江戸に迫った。
江戸の人々の心は乱れ,荷物を担いで逃げ出す有り様だった。
私はこのような状況を憂えて君の軍営に手紙を送った。君は私の手紙を受け入れてくれたばかりでなく,兵士達に命令して狼藉を働かないようにしてくれ,江戸百万の人々を塗炭の苦しみから救った。
(中略)
ああ君は私のことをよく知り,そして君をよく知ることでは,私に敵うものはあるまい