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【立問人物伝】世界初のワクチンを!「免疫学の父」ジェンナーの挑戦

ジェンナー記事アイキャッチ

はじめに

あなたは,「人類史上最悪の感染症」をご存知でしょうか?
人類史上最大の被害をもたらした感染症,それは「天然痘(てんねんとう)」です。

あまり聞き覚えがない,という方もいらっしゃるでしょう。
それもそのはず。
天然痘は史上唯一,人類が根絶に成功し,現代では流行していない感染症なのです。(2021年現在)

天然痘ウィルス天然痘ウィルス

 天然痘は感染すると致死率が20~30%にもなる感染症であり,何度も大流行を起こしては,少なくとも数千年間にわたり人類を苦しめてきました。
 その猛威は凄まじく,ヨーロッパから持ち込まれた天然痘ウィルスでアステカ帝国をはじめとする文明を滅ぼし(16世紀),フランスのルイ15世など各国の君主たちを死亡させる(18世紀)など,政治にすら影響を及ぼしたのです。
 WHO(世界保健機関)は,20世紀だけで3~5億人が天然痘が原因で死亡したと推定しています。

そんな恐ろしい感染症に対し,世界初のワクチンを発見することで立ち向かった人物がいました。
その人物の名は,イギリス人医師エドワード・ジェンナー(1749-1823)。

エドワード・ジェンナーエドワード・ジェンナー

今回は,「天然痘の撲滅」を夢見て研究を続けたジェンナーの挑戦を,彼の立てた「問い」を軸に追ってみましょう。

当サイト・リベラルアーツ研究所では今回ご紹介するような「立問力(問いを立てる力)」をこれからの時代に必須の力と考え,提唱しています。
詳しくは以下の記事をご覧ください!

哲学者
これからの時代の必須スキル「立問力」(問いを立てる力)とは? はじめに 「これからの時代の必須スキル」と聞いて,あなたは何を思い浮かべるでしょうか? 世界中の人と自由に意思疎通できる...

ジェンナーの生涯と「問い」

今から200年あまり前の1798年,一本の画期的な論文が発表されました。

『イギリス西部とくにグロスター州で見いだされ、牛痘の名前で知られる病気、すなわち牝牛の天然痘の原因と効果に関する研究』

という長い題名のこの論文(以下『牛痘の原因と効果に関する研究』)こそ,ジェンナーが発表した「種痘法」の論文です。
内容は簡単にいえば,「天然痘の感染は,牛痘(牛由来の良性ウィルス)にあえて感染することで防ぐことができる」というもので,世界初のワクチンの概念を示したものでしたが,その正当性を巡って世間に大論争を巻き起こしました。

この論文は,しかし,当時数々の著名な論文を出版していた「王立協会」による正式な出版が却下され,ジェンナーが私財を投じて自費出版する形で世に出たものでした。

さて,ジェンナーはなぜそうまでしてこの論文の出版にこだわったのでしょうか。
彼の生涯を追ってみましょう。

誕生〜幼少期

ジェンナーは1749年,イギリス南西部の田舎町バークレイにて産声を上げました。
牧師の一家の6人きょうだいの末っ子として生まれましたが,5歳で相次いで両親を亡くし,親代わりとなった一番上の兄ステファンに育てられます。

バークレイはどこまでも丘が連なり,乳牛の放牧が行われている酪農地帯です。
ジェンナーはこの村の自然をこよなく愛し,医師としての修行時代以外のほとんどの時期をこの村で過ごしました。
バークレイの豊かな自然の中で少年期を過ごしたジェンナーは,野外の動植物の生態観察や化石探しに夢中になるなど,他の子供とは少し違った子供でした。

この頃から,ジェンナーは生涯の彼の武器となる極めて優れた観察力「問い」を立てる力,そしてそれを検証する論理的思考力の片鱗を発揮していたのです。

医師見習いとして

8歳から12歳まで学校に通った後,ジェンナーは医学の道へ進むことを選択します。
この頃,ヨーロッパで発達した博物学(動物・植物・岩石など自然界のものを収集・分類する学問)の考え方では,人間も自然の一部として捉えられており,自然の観察に興味があるジェンナーが生計を立てていく手段として医師は最適でした。

1761年,12歳のジェンナーは家族の元を離れて,故郷バークレイに近いソドベリーという街の開業医ダニエル・ラドロウ先生に弟子入りし,21歳までの9年間を過ごします。

医師見習いとして忙しく働く間に,17歳のジェンナーは彼の生涯を通じて取り組むことになるテーマ「牛痘(ぎゅうとう)」に関する言い伝えを耳にします。

牛痘に一度かかった人は,その後天然痘にかかることはなくなる

牛痘は,天然痘によく似た痘炮(とうほう)という「できもの」ができる感染症です。
牛の感染症ですが人にも伝染するため,乳搾りに従事する人たちが感染することが多く,酪農地帯であるジェンナーの出身地方ではよく知られていました。

ただし,その症状は極めて軽く,牛乳を搾る手の周辺にできものができる程度で,天然痘と違って全く命に関わる感染症ではありませんでした。

上記の言い伝えはこの地方に根強いものであり,こんな詩が流行していたといいます。

かわいい娘さん,どこへ行くの?
これから乳搾りに行くところ。
かわいい娘さん,あなたの宝は何なの?
私の顔が宝。

18世紀当時のイギリスでは,人口の50%以上が天然痘に感染し,同20%の人が亡くなっていたと言われています。
運よく命が助かっても顔や全身に「痘痕(あばた)」が残り,特に女性はそれを理由に婚約解消といった事例もありました。

天然痘の痘痕天然痘の痘痕

そんな中で,乳搾りの女性たちには美人が多いとされていました。
それは天然痘による痘痕が顔にないためで,天然痘にかからないのは牛痘にかかったことがあるからだというのです。

天然痘に一度かかった人が二度と天然痘にかかることがなくなることは分かっていましたが,牛痘にかかれば天然痘を防げるなどということは,正式な医学知識としては全く認められていない話であり,当時の医師たちは誰も相手にしていない「うわさ話」でした。

そんな話,どこの医学書に載っているんだ?

ところがジェンナーは違いました。
この話を聞いて,こんな問いを立てたのです。

言い伝えの根拠となる事実(ファクト)はどうなっている?

ジェンナーのこの問いこそが,その後の人類の歴史を大きく変えることになるのです。

ジェンナーの問い①

真理こそが、私の探求の目的です。

エドワード・ジェンナー

ハンター先生との出会い

ラドロウ先生の下での修行を終えて21歳になったジェンナーは,さらなる医学修行のために首都ロンドンへ向かいます。

ラドロウ先生の紹介で出会ったのが,ジェンナーの生涯の師となるジョン・ハンター先生でした。

ジョン・ハンタージョン・ハンター

ハンターは当時最高の外科医として有名でしたが,同時に「超」のつく変人としても知られていました。
早朝から遺体の解剖を熱心に行い,診療や医学生への講義もこなすパワフルさを発揮していました。

また博物学にも造詣が深く,郊外の別荘にガチョウ・ハリネズミ・ジャッカル・シマウマ・ヘビ,さらにライオンやヒョウまで様々な動物を集めて飼育していました。
この様子は当時新聞でも報じられ,動物と会話のできる医師を主人公とする「ドリトル先生」シリーズのモデルになったとも言われます。

ハンターはなんと,業者に依頼して解剖用の遺体を墓から盗掘して調達しており(もちろん違法行為です),診療所の正面玄関から訪れる患者や来客を迎え入れる昼の顔と,裏口から運び込まれる解剖用の遺体を受け取る夜の顔を併せ持つことから,小説「ジキル博士とハイド氏」のモデルになったともされます。

そんなハンターが重視したのは,「実践」でした。
生徒へのアドバイスはいつも「考えるより,実験を。辛抱強く,正確に」だったといいます。

(前略)
なぜ解決策について私に質問するのか。
私はあなたの方針で正しいと思う。
なぜ考えるのか,なぜ実験しないのか。

(後年のジェンナーへの手紙より)

 当時の医療技術は2000年以上前から受け継がれる古典的理論に基づいたものであり,医学生の育成においても人体の解剖による実践教育は十分に行われていませんでした。
 実験と実践的理論に裏打ちされておらず,古典的理論と権威が重視される保守的な医学界にハンターは問題意識を持っており,観察と実験を繰り返して外科手術の近代化を強力に推し進めてきたのです。

 その姿勢は,先述のような「事実(ファクト)」についての問いを持っていたジェンナーにも大きな影響を与えます。
 ハンターの下での修行を終えて地元バークレイに戻ったジェンナーは開業医として仕事を始めますが,並行して天然痘の予防に関する研究を行います。

 当時,天然痘に一度かかった人は二度とかからなくなることが知られており,あえて軽く天然痘に感染する「人痘接種(じんとうせっしゅ)」という予防法があるにはありました。

 しかし,死亡率10%の上に周囲に天然痘の感染を広げる可能性もあり,とても安全な方法とは言えませんでした。
 さらに,一部の医師によりあえて複雑な方法で金儲けの手段として行われ,一般人には手が届かない予防法となっていました。
 ジェンナー自身も幼少期に人痘接種を受けましたが,症状が悪化して大変辛い目にあったのでした。

ジェンナーは再び問いを立てます。

もっと安全で簡単な予防方法が他にあるのではないか?

ジェンナーの問い②

論文発表

人痘接種よりも安全な,天然痘の予防法。
このテーマを考えるジェンナーの頭に引っかかり続けていたのは,ラドロウ先生の下での修行時代に耳にした「牛痘に一度かかった人は天然痘にかかることはなくなる」という言い伝えでした。

開業医となったジェンナーの診療所には,酪農関係の仕事をしている人が多くやってきます。
その中には,以前牛痘にかかったという人が何人もいました。

ジェンナーはいよいよ言い伝えの真偽を確かめるため,次のような問いを立てます。

言い伝えの根拠となる事実(ファクト)を確かめるために必要な手順は?

牛痘にかかったことのある人が村の中にまだまだいるらしいのですから,その手順は以下のようになります。

  1. 牛痘にかかったことがある人を見つける
  2. 牛痘にかかったことがある人に,天然痘を接種する(人痘接種を行う)
  3. 天然痘にかからないことを確認する

結果は大成功でした。
人痘接種を行うと本来ひどく腫れたり発熱したりするはずなのに,牛痘にかかった経験のある人が腕に天然痘を接種しても,わずかにその部分が赤くなる程度の症状しか出なかったのです。
言い伝えは,真実だったのです!

ジェンナーの問い③

ジェンナーには,さらに検証すべき課題がありました。

自然感染ではなく,人為的に感染させた牛痘でも同様の効果が得られるのか?

これまでのケースで明らかになったのは,牛から人間に自然感染した牛痘が天然痘を予防するということです。
では,人間が発症している牛痘を別の人間に感染させた場合にも同様の効果が得られるのでしょうか。

これを検証するには,どうしても「人体実験」が必要でした。
1798年5月14日,とうとうジェンナーは決断し,実験を行います。

ジェンナーは安全性の確認と十分な説明を行なった上で,自宅の庭師の息子であるジェームズ・フィップスという8歳の少年に対して,サラという若い女性から採取した牛痘によるできものの漿液(しょうえき。分泌液)を塗り付けました。

結果は大成功!
牛痘の接種後にフィップス少年は軽い悪寒や頭痛を覚えましたがすぐに回復しました。
そして,約7週間後に人痘接種を行いました。
これは天然痘ウィルスによる攻撃試験にあたりますが,フィップス少年はいたって健康なままでした。

ウィルスが初めて電子顕微鏡により可視化されたのは1935年のこと。
その100年以上前,まだ「免疫」という言葉もなかったこの時代に,ジェンナーは天然痘ウィルスに対する世界初のワクチン「種痘法」を発見したのでした。
※ワクチン(英:vaccine)は牝牛を指すラテン語「ワッカ(vacca)」から来ている

ジェンナーは早速これまでの研究成果を論文にまとめてロンドンに赴き,最も権威ある学会である王立協会に提出して審査と出版を求めました。

ところが結果は,まさかの差戻し
ジェンナーの発見は斬新過ぎて,当時最高レベルの知識を持つ医師や科学者たちであっても,受け入れられなかったのです。
既存の医学知識の延長上にない「言い伝え」をベースにしていること,実験データが少ないことも理由でした。

しかし,ジェンナーがめげることはありませんでした。
さらなる実験を重ねて論文を修正すると,今度は自費出版の道を選んだのです。

出版された論文『牛痘の原因と効果に関する研究』はたちまち大評判を呼びました。
すぐさまその効果を実験して検証し,絶賛する医師もいましたが,現代風に言えば「ワクチン反対派」の抵抗も凄まじいもので,「ジェンナーの牛痘接種(種痘法)を受けると牛になる」という噂が流行しました。

牛の風刺画牛痘接種の風刺画。接種を受けた人の体から牛が生えている

しかし,ジェンナーが丁寧に追求して明らかにした事実(ファクト)としての種痘法による天然痘予防効果は,もはや疑いようがなく,種痘法は急速に世界に広まっていきます。

論文発表から5年も経たないうちに,英語で発表された論文はドイツ語・フランス語・イタリア語・オランダ語・スペイン語など各国の言語に翻訳され,種痘法のワクチンとしての役割を果たす「かさぶた」や「漿液」などと共に世界中に広まり,天然痘を駆逐していきます。

その効果に驚いたフランスのナポレオンは,当時イギリスと戦争状態にあったにも関わらずイギリス人であるジェンナーの功績を讃え,勲章を贈っています。

ナポレオンナポレオン

 日本でもドイツ人医師シーボルトが,ジェンナーの発見の25年後の文政6(1823)年に江戸にて種痘法の講義を行い,さらに26年後の嘉永2(1849)年には佐賀藩で実際に種痘法に成功しました。
 さらにその後は,蘭学の私塾「適塾」を開いたことで有名な医師の緒方洪庵などの尽力で日本中に種痘法が広まりました。

緒方洪庵緒方洪庵

晩年

 世界に偉大な発見が広まっていく中で,ジェンナー自身も,種痘法を普及させるための努力を怠りませんでした。

 ジェンナーは,最初の論文『牛痘の原因と効果に関する研究』の後,続々と関連する論文を発表します。
 内容は,牛痘によく似た感染症「偽牛痘」との判別の重要性や6000名以上への種痘法の結果などで,さらにはワクチンの正しい採取方法・接種方法・接種の成功例と失敗例の症状の経過・ワクチン取扱上の注意などを記したパンフレットまで発行しています。

マニュアル

 ジェンナーは迅速かつ安価に種痘法を世界に広めるため,種痘法の特許をあえて申請しませんでした。
 もし申請すれば莫大な利益を得られたにも関わらず,彼の態度はかつて人痘種痘で金儲けを企んだ医師たちとは正反対のものでした。
 それどころか,私財を投じて種痘法ワクチンを積んだ船を用意して外国に送り出すことまでしたのです。

 さらにジェンナーは自宅の庭に藁葺き屋根の簡素な小屋を立て,晩年まで地域の貧しい人々のために無料で種痘法を実施しました。

 その後,最晩年までコッツウォルズの丘陵地帯で化石採集に情熱を注ぎ,1819年(70歳)には6500万年前の首長竜の化石を発見するなど,少年時代と変わらぬ自然への愛情を持ち続けました。

 そして1823年,1月26日。ジェンナーは脳卒中の発作により,73歳でこの世を去ったのでした。

その後

時代は移り,ジェンナーが亡くなってから約60年後の1881年,ロンドンで開かれた国際医学会議で,フランス人科学者パスツールは炭疽菌やニワトリコレラのワクチンを発表すると共に,次のように述べました。

イギリスにおける最も偉大な人物のひとり,あなた方のジェンナーの功績と莫大な貢献に敬意を表して,「ワクチン接種(vaccination)」の用語を広く当てはめたい。
この不滅の人の名前をこのロンドンの地で賞賛できるのは,なんと喜ぼしいことか。

パスツールルイ・パスツール

 それまで牛痘のみを指していた「ワクチン」の用語を,感染症の感染・発症を予防するための接種全般に対する概念にまで拡張しようと提唱し,それが認められたのです。
 こうして現代で広く使われる「ワクチン」の概念が確立され,ジェンナーは「近代免疫学の父」となったのでした。

さらに100年後の1980年,世界保健機関(WHO)はついに天然痘の根絶を宣言します。
そしてこれ以後,さらに医学や科学が発達した現代においても,人類が根絶できた感染症は他にありません。

世界保健機関(WHO)の旗世界保健機関(WHO)の旗


1798年にジェンナーがフィップス少年に世界初のワクチン接種を行なってから180年あまり。
 世界中の人々の尽力の結果,人類は数千年間苦しめられてきた天然痘の根絶という大きな夢を叶えました。

私たちが現在当たり前のように享受している,天然痘の無い世界。
 その出発点は,イギリスの小さな田舎町で,牛痘の言い伝えをただのうわさ話と切り捨てずに,「事実(ファクト)はどうなっているのか?」とジェンナーが心に抱いた小さな「問い」だったのです。

たとえ周囲に変わり者扱いされても,誠実に真理を追求し続けた「近代免疫学の父」ジェンナー。
世界を変えた最初の論文『牛痘の原因と効果に関する研究』は,このような言葉で結ばれています。

私自身は、この研究を続けようと思っている。
この研究が人類に幸せをもたらすであろう、その望みに力づけられて。

エドワード・ジェンナー

ジェンナーの事例から学べること

さて,ジェンナーの事例から私たちはどのようなことが学べるでしょうか。
私は,主に下記のような点が挙げられると考えます。

  1. ジェンナーが成果を出せたのは「伝統的な医学書」に頼るのではなく「事実(ファクト)」を追い求めたから
    ➡︎当時の「常識」の枠に囚われず,「事実はどうなっているのか」という問いを追求した。科学は常に未完成であり,新たな事実の追求が必要であることを忘れなかった
  2. 良いメンターを得るのが重要である
    ➡︎ハンターという師匠は,常にジェンナーにアドバイスを与え,良き議論相手となってジェンナーの能力を引き出した。優れた「メンター」がいると,人は自分の限界を超えた能力を発揮できる
  3. 思考だけでなく実践が重要である
    ➡︎理論を理論として完成させるためには,単に思考しているだけでなく実践して仮説を検証したりデータを集めたりすることが重要である。自分の理論がすぐに認められなくとも根気強く実験と発信を続けたからこそジェンナーは成果を出せた

あなたは,この記事をお読みになってどのようなことを考えられたでしょうか?
リベラルアーツ研究所では,今後も様々な人物やプロジェクトについて,「問い」をキーワードに取り上げていく予定です。

最後までお読みいただき,ありがとうございました!!

参考書籍

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猫と糖分を愛する経営コンサルタント