作品プロフィール
はじめに
天まで届くかと思われる大波。
砕ける白い波頭がしぶきを散らし,あたかも生き物のようです。
荒い波の中を行く三艘の舟は大きく傾き,今にも波に呑まれてしまいそうです。
そして波の奥には,富士山が小さく顔を出しています。
さて,この絵はどんな場面を表しているのでしょうか?
そして,隠されている謎とは?
解説
この絵が描いているのは,「荒れる海を行く押送船と富士山」です。
まずは,押送船がどのようなものかを明らかにしましょう。
押送船(おしおくりぶね)
➡︎江戸時代に用いられた小型高速船。
全長10~15m,幅3mほどのサイズで,風を受けるための「帆」と人力で漕ぐための「櫓(ろ)」の両方を備えている。
スピード重視の設計のため,船体が細長く,船首が尖った形をしている。
押送船はそのスピードを活かし,相模湾や房総沖といった漁場で獲れた鮮魚を主な輸送物としていました。特にカツオは江戸っ子に好まれたため,押送船で日本橋の魚河岸(うおがし)まで速やかに輸送され,高額で取引されました。
何人もの漕ぎ手が操る船がカツオを運んでくる様子を詠んだ,次のような川柳が残されています。
初鰹 百足(ムカデ)のような 船に乗り
日本橋の魚河岸(うおがし)
➡︎江戸時代初期,江戸市民のための魚市場「魚河岸」が日本橋に誕生しました。
1923(大正12)年の関東大震災をきっかけに築地に移転するまで,およそ300年にわたって日本最大の魚市場としての役割を担いました。
その後,築地→豊洲へと受け継がれた日本の魚ブランドは,日本橋から始まったのです。
次に,全体の構図に注目してみます。
富嶽三十六景は富士山が全作品に共通するモチーフですが,必ずしも富士山が一番目立つように描かれているわけではありません。
この「神奈川沖浪裏」でも,富士山は画面右奥に小さく描かれています。
絵画では「三角形」を構図に画面に取り入れると安定すると言われます。
この作品にも,主に下記3箇所で三角形が用いられています。
- 富士山の三角形
- 左手前の波の三角形
- 左奥の大波の三角形
です。
三重の三角形により,構図に安定感が生まれています。
また,「遠く」で「不動」の存在としてどっしり構える富士山と,「近く」で「動」の存在として激しく形を変える波の対比にも注目できます。
また,実は④にも三角形の一部(左辺)が隠れており,③の波の三角形の左辺と平行になっています。画面には映っていないものの,③の波と同様の大波が画面右に存在することを示唆しており,画面外の大海原の広がりを鑑賞者に意識させる効果を発揮しています。
①の富士山の三角形を内包する「円」の存在にも注目です。
富士山の直下から左斜め上にかけて,大波の境界線はまるでコンパスで描いたかのように,美しい円弧を描いています。
大波の頂点はその境界線をはみ出し,白い波頭が崩れ落ちてこようとしていますが,この様子がまさに「動」を意識させ,大波の迫力を一層増しているのです。
この名画の「謎」
さて,上記の解説を踏まえた上で残る謎が2つあります。
①こんな大波の中で船を出すことは実際にあったのか?
②『富嶽三十六景』はなぜ大ヒットしたのか?
謎①こんな大波の中で船を出すことは実際にあったのか?
この絵を印象づけるのは,何と言っても画面左半分を占める大波の迫力です。船や人のサイズとの比較から,波の高さは約12~15mとされます。
あまりの波の激しさに,船の漕ぎ手たちもこの通り,うずくまるようにして船にしがみついています。
果たして,こんな大波の中で船を出すことは実際にあったのでしょうか?
私が考えるに,答えは明確に「No」です。
ただし,全く何の意味もないデタラメかというと,それも違います。
北斎は,画家としての想像力を最大限に発揮してこの場面を描いたのです。
そもそも,北斎は「見たものを見たように描く画家」ではなく,「描きたいものを描きたいように描く画家」です。例えば,同じ富嶽三十六景の別の作品をご覧ください。
見てすぐに分かるように,
- 富士山の水面への映り込み方がおかしい
- 水面に映る富士山自体も本体と全く違う外観である
というある種の「遊び」があります。
今回取り上げている「神奈川沖浪裏」における北斎の「遊び」は,現実にはあり得ない「船が転覆するレベルの高波+押送船」の組み合わせということです。(実際に,空がすっきり晴れていて海だけ嵐のような状態というのは現実では考えにくいでしょう)
一方で北斎は,リアルな表現を追求する画家でもあります。
波の頂きが砕けて雪崩落ちる様子は,1/5000秒の超高速スピードでシャッターを切った瞬間のようだと評されるほどリアルです。
そして北斎は,押送船を気まぐれで描いたわけではなく,きちんと表現上の役割を与えています。
赤い円で囲った箇所に注目してみると,①では船底が,②と③では船の後部が手前の波によって遮られています。
これにより,「奥行き」が意識され,絵全体が立体空間として捉えられるようになります。
また,①・②の船は単純に横から側面が描かれているのに対し,③の船は斜め上から描かれており,船自体の奥行きが表現されています。
また,木造の船の色が薄茶色で表現されていますが,これは青の補色であり,全体に青が多い画面を引き締めています。試しに船を除いたイラストを見てみるとかなり殺風景で,船がいかに重要な役割を担っているかが分かります。
謎②『富嶽三十六景』はなぜ大ヒットしたのか?
続いての謎は,『富嶽三十六景』が江戸の町民たちの間で大ヒットした理由です。
結論から言ってしまえば,それは「名プロデューサーの存在」です。
一体どういうことでしょうか。その謎を解くカギは,浮世絵版画という作品の発表形式にあります。浮世絵版画は,下記のような役割分担で制作され,世に出されていました。
一連の工程において最もエラい立場にいるのは,絵師・彫師・摺師ら職人に賃金を出す「版元」です。現代でいう出版社に相当しますが,企画の立案から最終的な販売までのプロデューサーと言ってよいでしょう。
浮世絵は少数の権力者ではなく一般大衆を相手とする薄利多売の商売なので,とにかく「ヒットする作品」を売り出すことが重要です。
『富嶽三十六景』の場合,版元は「永寿堂西村屋」でした。
ヒットの秘密は,永寿堂がヒットするための下記3つの条件を揃えたことにあります。
当時の社会では浮世絵といえば「美人画」か「役者絵」が主流。
風景画は全くメジャーではありませんでした。
一方でお伊勢参りなど旅行ブームが到来し,風景画がヒットする土壌が整っていました。
また富士山が信仰の対象として人々に親しまれており,「様々な土地の様子と,そこから見える富士山」をテーマとした連作はまさに時勢を捉えた秀逸なコンセプトだったと言えます。
そして実力派の天才絵師・葛飾北斎を大抜擢し,当時まだ珍しかった舶来の新染料「ベロ藍」を画材として提供する。
北斎はこの新しい青色に夢中になり,画家としてのモチベーションを多いに刺激されたことでしょう。
こうして北斎が『富嶽三十六景』シリーズで多用した青色は現在「北斎ブルー」と呼ばれ,世界的に有名となっています。
こうして発表された『富嶽三十六景』は見事に大ヒット!
江戸の人々の心を鷲掴みにして,あまりの好評ゆえに,当初は名前の通り36種類で完結するはずだった予定を変更し,10種類が追加され計46種類の作品となりました。
『富嶽三十六景』は,歌川広重の『東海道五十三次』と並んで,名所絵と呼ばれる風景画の先駆けとなっていきます。
『富嶽三十六景』は,天才絵師・葛飾北斎一人の力ではなく,名プロデューサー・永寿堂西村屋の存在があったからこそ大ヒットしたのです。
後世への影響
北斎の描いた『富嶽三十六景』は,海外の芸術家にも多大な影響を与えました。
浮世絵は幕末期から大量に海外に流出し,万博に出展されるなどして注目を集めましたが,中でも北斎の「神奈川沖浪裏」は「グレートウェーブ」と呼ばれて,モネやゴッホといった巨匠に絶賛されました。
また,作曲家ドビュッシーは自室にこの作品を飾って作曲を行い,交響詩『海』の楽譜の表紙に「神奈川沖浪裏」を描きました。
近年の動きとしては,日本人なら誰しも一度は見たことのある美術作品として,2024年から導入される新千円札の裏面デザインに採用されることになっています。(表面は北里柴三郎)
また,2020年に大幅にデザインが刷新されたパスポートにも『富嶽三十六景』が採用されており,国内でもさらに評価が高まっています。
(外務省HP「次期パスポートの基本デザイン決定」)
『富嶽三十六景』は,『風神雷神図屏風』などと並んで,今後も日本を代表する芸術作品であり続けるでしょう。
まとめ
今回は『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』を取り上げました。
その結果,以下のようなことが分かりました。
- 『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は,荒れる海を行く押送船と富士山を描いた名画
- 遠くで不動の富士山と,近くで大きく動く波との対比が特徴的
- 船が転覆しそうな大波の中に押送船を配置したのは北斎の「遊び」と考えられるが,一方で押送船には波に立体感を持たせ,画面のバランスを取る役割がある
- 『富嶽三十六景』は全46種類発表されるほどの人気作となったが,その成功のカギを握ったのはプロデューサーである版元・永寿堂西村屋だった
- 「神奈川沖浪裏」は海外でも大反響を呼び,日本を代表する芸術作品としてパスポートや紙幣のデザインにも採用されている
美術作品には,素人だからこそ様々な視点で楽しめるという魅力があります。
今後も様々な作品を取り上げて鑑賞,考察していきたいと思います。
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最後までお読みいただきありがとうございました!!
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参考書籍