こんにちは!
リベラルアーツ研究所(以下リベ研)ライターのサメの助です。
私のリベ研での担当領域は記事執筆、サイトカスタマイズ、システム整備、コンテンツ管理、広告管理など、幅広くやっております。
現在リベ研はもりおと二人で運営しているので2人ともほとんど全てのことをこなしていますが、あえて細かく分けるとすると、サメの助はシステム担当、もりおは料理担当です()
もりおの食事に関する記事カテゴリは「グルメ」ですが、私の食事に関する記事カテゴリは基本的に「ライフハック」です笑
ちなみに私は低めのテンションでボケるのでどこでボケたかを拾う皆さんの力量が試されています。
まさにリベラルアーツですね?
現在は東京大学大学院で修士課程2年生の理系大学院生として日夜研究に励んでいるわけですが、博士課程に進学する予定はなく、2021年4月からはマーケティング系のITベンチャーに就職します。
これまで博士課程に進学することを考えたことがなかったわけではありませんが、私自身が東大の理系大学院生としての経験に求めているのはサイエンスを突き詰めることそのものではありません。
私が求めているのは、アカデミックの最先端にはどういった人たちがどのような考えで存在しているのか、そしてその中で成果を出すためには自分はどういったことをすればよいのか、ということを学ぶことであり、そのためには博士課程にまで進学する必要はないと考えています。
また、現在の研究テーマは幼少期から興味のある対象ではあるものの、サイエンスとしての意義そのものをそのテーマに感じているわけではなく、自分自身の熱意や時間をこのままこの領域に投下する気にはならない、というところも修士での卒業を選択した理由の一つです。
今考えていること
さて、こちらはサメの助の自己紹介記事ですが、実は今回だけでなく、今後半年に一度くらいのペースで定期的に更新していくつもりです。
そんな記念すべき第一回の自己紹介シリーズですが、やはり何度も記事を作るのであれば、考え方の変遷をたどるのが醍醐味なのではないかと思いますので、現時点で私がどういったことを考えているのか、ということについて、記録に残しておこうと思います。
これまでの人生についての簡単な振り返り
現在という時間軸は、必ず過去の延長線上にのみ存在しています。
また、現在を認識したその瞬間から現在は過去に変容していきます。
そこで、現在の考えを記す前に、過去に対する振り返りをする必要があります。
今回の記事は初めての自己紹介なので、この後でより詳細な振り返りを行いますが、ここではそのまとめとなるような簡単な振り返りをしてみようと思います。
さて、私のこれまでの人生を一言で表すと、「足りないものはないが、起伏の少ない人生」といったところでしょうか。
ありがたいことに、恵まれた家庭環境、学校環境、友人に囲まれ、何かが決定的に欠如していて、苦しい思いをする、といったこととは無縁の人生でした。
周囲から与えられるものにはもちろん満足していましたし、私自身の能力としても、とりたてて何かが苦手でとにかく困った、といった経験はありません。
強いて言うのであれば私はとにかくサッカーが苦手で、小学生の時、あまりの才能のなさからボールを蹴ろうとして誤って地面を蹴ってしまい、靴を真っ二つに割ってしまった上に私自身も通院することになった、といったことくらいでしょうか。
それ以外であればやろうと思ったことはある程度の水準まではすぐに到達させることができたし、目標として設定したことを失敗したことはほとんどありません。
しかし、それは裏返せば、自分の達成できる範囲内のことにしか取り組んでこなかったということでもあります。
私には兄がいるのですが、幼稚園、小学校、中高、大学、就活と、これまで経験したどのライフステージにおいても、兄と全くことなる道を歩んだことはありませんでした。
常に兄の背中を見て、成功体験と失敗の要因を学び、効率的に人生を歩むことができました。
特に幼少期の数年の違いは大きいもので、常に数年成長した先の視点を取り入れてものごとを考えることが出来たので、小学校まではとりわけ困難を感じることなく人生を過ごすことが出来ました。
その結果として、自分で道を切り開く、出来ないことに挑戦する、自分で考えて行動する、といった経験を積むことをせず、正解の分かるものに取り組んで当たり前の成果を出して満足するだけの人生が積み重なることになりました。
誰かの言った正解、誰かの歩んだ道、誰かが好きなもの…そういったものをあたかも自分の内から湧き出てきたものかのように表現し、オリジナリティを見せかける能力は身につきましたが、自分だけの正解を掲げて何かに挑戦する、ということは今まで一度もしたことはありませんし、そのような能力が圧倒的に欠如していることを感じています。
このように書くと、「オリジナリティとは必ずしも0から生まれるものではなく、先人の知恵を取り入れてからアレンジすることで生まれるのが一般的だ」という意見も出てくるかもしれません。
いわゆる、「守・破・離」の考え方です。
しかし、私の見せかけのオリジナリティは、ベースとなるものを発展させる思考プロセスそのものすらも誰かのコピーであり、自分の頭を使ったわけではありません。
あえて表現するならば、「守x守x守」です。
例えば再現性高くビジネスを成功させるためには、むしろこのような考え方が安定的で価値を発揮するかもしれませんが、私自身がこの考え方・生き方に面白さを見いだせなくなってしまいました。
このような考え方については、こちらの記事でも詳しく書いています。
これからの人生について
そこで現在、私は正解のない領域での挑戦に身を投じ続けることに今後の人生を捧げようと考えています。
どのスポーツと比べても競技人口の多いビジネスの領域で、自分だけの正解を設定し、それを実現することに私の熱意と時間を投下したい、ということです。
具体的に何をするのか、という明快な「正解」は未だ設定できていませんが、事業を作り出し、自分がリーダーとしてチームメンバーを率いて事業を推進させることで世の中の誰かに感動体験を与え、そして自分自身とチームメンバーの自己実現につなげる、ということは少なくとも私の中で粗い「正解」として設定してあります。
今は、その粗い「正解」を実現するために必要なステップを一つずつ踏んでいこうとしている最中です。
今までの人生の振り返り
すでに大分長くなってしまいましたが、私のこれまでの人生を、時期別に少し振り返ってみようと思います。
興味のある方だけご覧ください。
幼稚園入園前
世界のほぼ全てが母親に占められていました。
時々近くの公園に遊びに行って同世代の子供と遊んだりはするものの、世界のほぼ全ては母親でした。
父親を完全に父親だと認識していたかどうかが怪しいです。
とにかく人見知りで、幼児が集まる体操教室でも基本的に母にしがみついていました。
楽器を始め、兄と同じことができることがとても嬉しかったことを覚えています。
母に着いて来てもらって三輪車で遠くまでお出かけしたことがあったのですが、自分は熱中して楽しんでいただけなのに褒められて、不思議に思いながらも得意げでした。
今考えるとよくもまあスローペースな三輪車おでかけに母親はついてきてくれたものだと思います。
幼稚園
同世代の友達が沢山できました。
この頃に水泳を始めた気がします。
今まで一番長い時間触れ合ってきた人の中で最も歳が近いのは兄だったので、考え方のスタンダードは大きく兄の影響を受けていました。
流石に数年長く生きているという経験の差は当時の年齢ではとても大きく、幼稚園の友達よりも視座は高めだったのだと思います。
小学校前半
世界がさらに広がりました。
多くの子供はこのタイミングで規範のある世界観に始めて入門することになりますが、私もその例にもれませんでした。
小学1年生の担任の先生が理不尽なほどに厳しかったこともあり、きちんとした態度、というものがどういったものなのかをよく理解できました。
小学校で学んだ態度を他で応用しなきゃいけない、ということにも同時に気が付きました。
小学校に入ると成績を点数でつけることになりますが、基本的に全て100点となるため、自分が間違ったことをしていない、という気分になりました。
小学校後半
小学校4年生ころまではクラスメイトから好意的に受け止められることが基本で、そのような環境でリーダーシップを発揮して自発的に色々なことをしていました。
しかし、5,6年生になると徐々に周りに馴染めなくなっていきました。
少し悪口を言われたりするだけで大いに凹んでしまい、中心に出ていくことを避けるようになってしまいました。
女の子が怖くなり、また兄への憧れから、私立の中高一貫校の男子校に進学することに決めました。
受験勉強のための塾は、周りの人の頭もいいし話も合う友達が多かったので、とても楽しかったです。
そんなにレベルの高い学校を受けたわけでもなかったので辛い勉強でもなかったし、何より土日に長い時間塾で勉強して、友達にも会えることがとても嬉しかったです。
中学
ついに念願の男子校に入学しました。
もりおとは中学1年のクラスで知り合いました。
変な動きをする長い奴がいるな、という印象でした。
中高6年間あるという油断と、塾のカリキュラムなしに自分で勉強する方法を知らなかったため、成績は落ちぶれます。
ペーパーテストであれば下から数えた方が早い順位でしたが、体育・美術・技術・音楽などで学年1位を量産することで順位をごまかしていました。
親は成績について特に怒られることはなく、順位のよかった副教科だけに注目して褒められました。
兄は成績で怒られていたような気がしましたが、この辺は次男に対する余裕というものでしょうか。
何も言われないことに逆にいたたまれない気持ちになりつつも、特に何をするわけでもありませんでした。
運動部に入りそれなりに力をつけますが、取り立てて活躍をしたわけでもありませんでした。
高校
運動部を引退し、美術部や音楽の同好会で楽しく過ごすようになりました。
文化祭でクラスの出し物は高校生は特にないので、文化祭で何も思い出になることができていないことに高1で気がつき、高2では音楽の同好会での活動に少し力を注ぎました。
仲間と共に0から企画を作り上げるのは、良い思い出になりました。
これが大学でも音楽をやろうと思ったきっかけでもありました。
成績は下から数えた方が早かったが、勉強していなかったから当たり前、というスタンスでした。
高3から本格的に勉強して東大理系に現役合格しましたが、受験勉強をすることに圧倒的正義を感じ、自分は今正しいことに向けて正しい努力をしている、という満ち足りた気分で勉強をしていました。
とても楽しい受験勉強でした。
大学1,2年
音楽の部活に入り、楽しく活動をしました。
大学に入ることをゴールとして設定してしまっていたので、特に目的もやりたいこともなく、自堕落な生活を送るようになってしまいました。
なんの生産性もない、テンプレのような大学生で、大事な時間を無駄にした、という思いもありますが、沢山の仲間や尊敬できる先輩に出会い、時間を自由に使う、という経験は必ずしも人生でいつでもできるわけでもないので、あれはあれで良かったのだと思います。
大学3,4年
音楽の部活でリーダーを務め、100人規模の集団を率いてツアーなどを行いました。
ただ、リーダーに立候補したのは、「同じ部費・時間を投下するならハードでやりがいのあることをした方が楽しいはずだ」という邪な考えで、使命感も目的もありませんでした。
やり切った後、達成感に満たされるかと思いきや、役職をこなしたり友達と楽器を通して遊ぶことだけを考えていたせいで、「自分がその役職をやる意味」を設定しておらず、虚しさが残ってしまいました。
就活については何一つ考えておらず、「理系なんだから大学院に行くのが当たり前」という固定観念から、大学院に進学することに決めました。
大学院修士1年
早い時期から就活を始めました。
キャンパスが実家から離れた場所であったため、人生初の一人暮らしを始めました。
研究対象は、幼少期からの憧れのものだったので、ある程度の満足感を得ていました。
就活、研究、一人暮らしと、全てが新しいことばかりで、とても楽しく生活していました。
特に就活は今まで出会ったことのないような人々に出会うことができ、とても楽しかったです。
当初はもりおと同じくコンサルティングファームへの就職を希望しており、某戦略コンサルティングファームから内定を秋にいただいたため就活を早期に終えようとしていました。
ところが、自分が何をしたいのか、上で書いたような自分なりの「正解」とは何か、をよく考えた結果、ITベンチャーへと就職することに決めました。
研究室の同期ともとても仲がよく、週1-3回の頻度で頻繁に研究室内で飲み会をしつつ、日付をまたぐまで実験に没頭する日々でした。
大学院修士2年(現在)
コロナウィルス感染拡大の影響から、4-6月はほとんど研究室に入ることはできませんでした。
その間に内定先のITベンチャーでのインターンを行い、事業立ち上げの大元に触れることが出来たため、良い経験でした。
研究にしばらく触れず、いつ再開するかも分からず、仕事を少しかじったことで、「研究を今すぐやめて働き始めたい」と考えるようになります。
研究対象自体は幼少期からの憧れであるものの、その研究内容そのものには興味は湧かず、良く考えずに研究室を選んだことを後悔し始めます。
しかし、ここまできて辞めたら絶対にもっと後悔するし、せっかく東大の理系大学院生として活動しているのだから、論文投稿までしなければ真に理系院生を経験した意味がないのではないか?と思い、現在は再び精力的に研究に勤しんでいます。